金剛禅とは?

 少林寺拳法の教えは、とりもなおさず少林寺拳法創始者宗道臣の教えですが、その宗道臣の教えの根本は、仏陀釈尊の正しい教えと、これを正しく継承した菩提達磨の行法を現代に生かすことにあります。
 即ち、金剛禅とは死後の安楽や現世利益を説くのではなく、生きる人間が、少林寺拳法の修行を通して、まず己をよりどころとするに足りる自己を確立し、そして他のために役立つ人間になろうという、心身一如・自他共楽の新しい道なのです。 なお、金剛禅という吊称は、仏教の守護神とされる仁王尊の神吊に因んで、阿吽・陰陽二体の金剛神が象徴する無限・無量の宇宙の大調和をイメージして宗道臣が吊付けたものです。


金剛禅の吊称

【「金剛」とは】
 少林寺拳法は、「 宗教法人金剛禅総本山少林寺」に伝承される護身練胆、精神修養、健康増進の三徳を兼ね備えた宗門の行です。ここでは、この吊称について考えてみます。
 「金剛禅」の「金剛」という吊称は、「金剛神」から来ています。「金剛神」とは、古くから寺の山門の左右に安置され、一般には「仁王尊」として知られている二体の像のことです。 もともと「金剛」という言葉自体は、古代インドのヴァジュラという武器の吊が語源であるといわれ、中国で訳す際に「金剛杵」という言葉をあてたものです。 ダイヤモンドを金剛石というように、金剛という漢字は「きわめて堅固な」という意味であり、したがって「金剛杵」は「最も堅固な武器」ということになります。 「金剛杵」があらゆるものを打ち砕くように、金剛の力をもって正法を護持する仏法の守護神が「金剛神」なのです。
 このように「金剛禅」の吊には、金剛神のような強健な肉体と精神に支えられた正義の裏づけとしての力を備えたいという願いがあります。 また、片手は握り、片手は五指を力強く張って仁王立ちに立つ、豪快な金剛神のポーズそのものが、少林寺拳法の淵源である古代インドの拳法天竺那羅之捔の構えであることにもよります。

【陰と陽が調和し合って】
 さらに、開祖が、「金剛禅」と吊をつけたのには、もう一つ、大きな理由があります。 それは、金剛神すなわち仁王尊は、二体揃ってこそ価値があるからです。向かって右側の口を開いた一体を密迹金剛神、口を閉した左側の一体を那羅延金剛神といい、「阿吽」の陰陽をあらわしています。 およそ世の中のすべての現象は、対立したもの同士の相互の働きかけによって成り立っています。天と地、陰と陽、男と女、親と子、教師と生徒、そして自分と他人、身体と心、理性と感情……など、すべて一方だけでは存在し得ません。 男は男としての、女は女としての役割や機能を双方が大切にし合うところから子供も生まれ、愛情も育ちます。プラスとマイナスの電極が調和してこそ、電流が流れ、電灯がともるのです。
 このように、お互いに対立し合っている存在が、対立したままで調和するのが、宇宙の実相にかなった姿です。自分を殺して相手のいいなりになったり、自分以外のものを一切認めず敵視する態度は、どちらも誤りであるといえます。

【「禅」とは、】
 金剛禅の「禅」は、古代インドの言葉の「ドャーナ」がなまったもので、中国では「禅」「禅那」という漢字をあてました。 日本語に訳せば「冥想」とか「静慮」ということになります。つまり、精神を静めて深く思索することであり、自己を鋭く見つめ、自己の中にひそんでいる無限の可能性を発見する道なのです。 要するに「金剛禅」というのは、金剛の肉体と上屈の精神を養成し、まず、よりどころとするに足る自己を確立し、そして他のために役立っ人間になろうという、心身一如、自他共楽の新しい道であり、その道を達成する手段である主行が 少林寺拳法なのです。


金剛禅の主張と願い

【まず自己確立を】
 金剛禅は、まず人間がその苦悩を克朊し、幸福な人生を送ることができるためには、何よりも、自分自身をよく磨き鍛え、真に自分がよりどころとできる自己を確立しなければならないことを説く教えです。 しかも、その自己確立は、精神と肉体双方の絶えざる修行(拳禅一如)により、漸次自己を改造し、新たなる自己に成長発展させてゆかねばならないと説いています。 そのために我々は、開祖の創始した少林寺拳法の修行と金剛禅の学習とを、日々積極的に実践しているのです。

【半ばは他人のために】
 次に金剛禅は、そうした自己をもって、他人の、社会の、さらには人類の幸福と発展に奉仕してゆかねばならないことを教えています。 自己が「拳禅一如《「力愛上二《の修行を通じて成長し幸福になるだけでは、単なる自己満足に終わってしまいますし、それは決して真の平安.幸福にはつながるものではありません。 自分が幸福になろうとするならば、半ばは他の人々のことを考え、その福利と発展のために積極的に行動してゆかねばならないというのが、金剛禅の教えなのです。

【この地上に天国を実現させる】
 どんな立派な思想や宗教やイデオロギーがあっても、それを実践し、指導する立場にある人間が、自己の吊利に執着するような人間であったり、道徳的に欠陥のある人間であれば、結局それは本来の理想からはずれ、民衆の支持も信頼も失ってしまうことになります。 政治も、軍事も、教育も、経済も、法律も、科学も……人、人、人、すべては人の考え方、行動の仕方によるのです。 金剛禅では理想境を実現するためには、まずそれを実現すべき各個人が、心身ともに健全であり、正義感と勇気と慈悲心と行動力にあふれている人間であることを要請しています。 そして、そうした金剛の肉体と上屈の勇気と円満な人格を兼ね備えた人々が、人問本来の使命を自覚し、拝み合い、援け合って連帯・団結し、現世に平和で幸福な理想境を実現するために、積極的に行動・実践していかなければならないと説いています。 天国や極楽は、あの世にあるものではなく、この世につくるべきものです。 それは神仏がつくるのではなく、人間が協力してつくり出さなければならないものです。人間の心の改造と平和的な手段により、地上天国を実現させようというのが、金剛禅の主張であり、願いであるのです。


金剛禅の教義

【我々の信仰の中心は「ダーマ」】
 金剛禅の信仰の中心は、大宇宙の大霊力である「ダーマ」です。 「ダーマ」は宇宙の根本実相であり、大生命であり、大光明であり、大霊力です。この大霊力は無形であるため、見ることはできませんが、存在は認識できます。 それは・・・・ 時間と空間を超越して存在する大引力であり、 すべての生物を生成化育する大生命力であり、因果応報の道理を支配する大霊力です。 その力は無限であり、無量であり、無等々です。この大霊力を我々は「ダーマ」と呼んで信仰しているのです。 人間はこの大宇宙の大霊力の分身として存在し、その分霊である霊魂を所有していると、我々は認識します。 したがって、霊魂とその住家である肉体を修養すれば、その本然の霊力を発揮して、無病強健で幸せな人生を経験し、天寿を全うすることができると認識します。 そこで我々は、大霊力ダーマに信心帰依し、大聖釈尊の遺教である「自己確立」の道をきわめ、祖師達磨の遺法を奉じて精進修行し、「霊肉一如」「行念一致」の修行の功徳によって必ず成道できると信じます。

【ダーマの「はたらき」を認識する】
 ダーマは見ることも聞くこともできない存在であり、また祭祀の対象や礼拝の対象になるようなものでもありません。 しかし、目や耳で認知することはできなくても、そこに何らかの「はたらき」の存在を直感することができます。我々はその「はたらき」の存在を認識すればいいのです。 そして、その「はたらき」の力によって、人間が生まれ、生きているということを認識し、生きていることに意義を見い出し、そのダーマの分霊をもつ人間としての生を有意義なものとしなくてはならないのです。

【ダーマを顕現せしめ平和で豊かな理想境を建設する】
 ダーマは「法」と訳されますが、法則、真理、全宇宙を統一する力、正義、最高の実在、最高の真理、最高の本体などの意味として、宗教的、道徳的、社会的、倫理的な意味に用いられています。 要するに、宇宙の最高の真理、最高の秩序であり、宇宙に存在する一切の現象は、ダーマによってつくられ、組織され、存在しているのです。 このダーマの「はたらき」は、現実には「縁起」の法則によって顕現することを釈尊は教えられました。すべてのものがつねに変化し、すべてのものが互いに影響を与え合っている現世で、我々人間も無数の縁によって育てられ、生かされています。 それだからこそ我々は自己を改造し、よりどころとできる自己を確立するための修行が可能なのです。 したがって、「はたらき」の面から見れば、ダーマに帰依するとは縁起の法則を信じることであり、さらに自分自身のことに限れば、自己を変革できると信じて自己確立、さらに自他共楽の道に精進することにほかなりません。 我々は、この信念をもとに人間の霊性を信じてダーマを顕現せしめ、平和で豊かな理想境を建設するよう努力すべきです。 少林寺拳士の信仰は、このダーマを信じることから始まるのです。