時 事 法 談 (85)

「人はなぜ悩み そしてどう生きるのか」

2007年11月1日

大館三ノ丸道院専有道場にて

合掌

 金剛禅では、「半ばは自己の幸せを 半ばは他人の幸せを《という少林寺拳法(r)の基本理念を本気で追求し、平和で豊かな理想社会実現に向けて行動できる人を育て、そんな人達が協力して世界の平和と福祉に貢献しようという社会運動を金剛禅運動と称して展開しています。 そこでこのページには、人づくりの一手段として普段私が行っている稚拙な法話の一部を、金剛禅運動の一環として、浅学非才を顧みず恥ずかしながら連載して参ります。(更新は上定期) この拙話をきっかけとして、さまざまな議論が巻き起こり、平和と福祉に貢献する実効ある活動が、世界中で展開されることを心から願ってやみません。皆様のご意見ご感想をお寄せ下さい。

結手

さて、久しぶりですが今回は「人はなぜ悩み そしてどう生きるのか《と題してお話します。

1、 考える力があるから苦悩する

 「格差社会《という言葉が流行っていますよね。それに関連して金剛禅教団の中にあっても、「格差社会《は問題であるといった発言が数多く聞かれるようになってきています。もちろん、格差を格差のままに捨て置く社会は決して良くない社会ですが、「みんなが同じ《であるべきなのかという点ではちょっと疑問を感じています。以前NHKが「ワーキングプア《を特集して、「こんなに一生懸命努力している人たちが報われない社会は、何かがおかしい《というメッセージを出していました。一般に「努力《という言葉も良く使われ、「結果よりも努力した過程が大事である《というもっともらしい話も聞こえてきます。果たしてそうなのでしょうか。最近思うところがあり、今日は久しぶりにまとまった話をしようと思います。
 ワーキングプアと呼ばれる人たちは、毎日重大な悩みを抱えていることと思います。本当につらいでしょうね。爪に火をともすように生きているわけですから想像を絶する苦しみに悩んでいらっしゃると思います。人間は誰もが悩みます。命に関わるか否かはともかくとして人は誰でも悩み苦しむのです。では、人はなぜ悩むのでしょうか。
 それは、当たり前のことですが悩む力、考える頭があるからです。魂と魄に区分して考えれば、魂つまり人間だけに与えられたダーマの分霊優れた霊性が皮肉にも悩みの原因になっているわけです。だって物事を考えることなしに本能で生きる魄しか持たない動物は、いちいち悩まないでしょう。要するに、人は霊止(ヒト)だから悩むのです。

2、 決められないで悩む人

 その悩みのパターンは、大きく3つに分けることができます。 一つのパターンは、物事を決められないで悩む人たちです。いわゆる優柔上断な人ですね。レストランに入ってメニューを見てもなかなか注文ができません。こういうタイプの人は、想像力がたくましく、「あれも美味しそう、これも食べたい《と考えたり、「これを食べたら太りそう、あれでは物足りないかな《などと結果を先に思い巡らしたりして、結局いつまでたっても決めることができないわけです。ある意味、贅沢な悩みかもしれませんね。中には、決めた後からもまだ悩み続け、「やっぱりさっきの注文を変更する《と言ってみたり、「あ、あなたのと同じにすれば良かった《と言ってみたり。そんな人、いますよね。 意思決定できない、決断力が無いというのは、要するに責任感の無さの現われです。失敗するかもしれないことに自己責任や結果責任を負いたくないから、決めることができない。未来の失敗が怖いのです。決断できなければ行動できないわけですから、リーダーには向かないタイプです。まあ、レストランのメニュー程度のことならば良いのですが、重大な決断をしなければならないときに優柔上断になるリーダーは最悪です。その上、そういう人は他人から悪く思われたくないという八方美人が多いものです。そんな人をリーダーに持った部下は悲惨です。金剛禅門信徒として社会のリーダーを目指している皆さんは、いざというときには決して優柔上断にならないでくださいね。

3、 思考停止の人や企業

 優柔上断なタイプがもっと悩むと、悩んだ挙句に思考停止をしてしまうというということがあります。考えることをやめてしまうのです。コンピュータがフリーズしますよね。ちょうどあの状態です。悩むこと自体をやめてしまうのです。これは、悩みが大きければ誰にでも起こりうることですが、しょっちゅうそうなってしまう、そんな癖を持っている人がいます。叱られたり失敗したりすると固まってしまうタイプの人たちです。そういう人が責任ある立場につくと、組織もまた思考停止に陥ります。
 最近、「別に・・・《という言葉を発する人が増えているように感じます。何を聞いても「別に《と答える。考えるのが面倒くさいのでしょうか。大いに憂慮すべきことだと思います。なぜなら、考えることをやめてしまうということは、霊止であることを捨てるということでもあるわけです。「人間は考える葦である《とも言われます。人であることを捨ててしまったのでは、生きている意味が無いではないですか。人は、世のため人のために尽くすという使命を帯び、ダーマの分霊を身に受けて生まれてきたのですからね。自分で物事を考えないということは、他人に自分の将来を委ねるということです。開祖は、「金魚の糞になるな《と仰いました。「鶏頭となるも牛尾となるなかれ《ということです。
それでも人にくっついて行動しているうちはまだいいのかもしれません。もっと問題なのは、行動をしないまま思考停止を長く続けてしまうことです。もちろん長い間自分の世界に閉じこもっていれば全く考えることをしないわけにはいかなくなります。それぞれに悩んでいるはずです。でも、行動の伴わない悩みは、結果的に何も考えていないことと同じです。そんなことが許されるのは、実は恵まれているからなんですよ。弱肉強食の世界ならば、何も行動を起こさなければ死んでしまう。でも恵まれているから自分で行動しなくても食べさせてもらえる。何もしなくても生きていけるから、そこから抜け出せないわけです。そんな閉ざされた世界にいる人たちの悩みは深刻です。頭の中を悩みだけがぐるぐる廻ってしまう。そういえばフリーズしているコンピュータも、ハードディスクだけが高速で回転していることってありますよね。

4、 期待と事実が矛盾する

 少し話が脱線しましたが、もう一つの悩みのパターンは、期待と事実の矛盾を受け入れられないために起こるものです。苦悩のほとんどの原因はここにあります。現実に起きた事象には、良いも悪いもありません。9月の布薩会で般若心経のお話しをしましたが、まさに一切は「空(くう)《なのです。雨が降って困る人もいれば喜ぶ人もいます。NTTの天気予報177では、「晴れの日《を「良い天気《とは表現しません。良いか悪いかは人それぞれによって違うからです。その違いは、その人が抱く期待から生まれます。
 ところで一般に、将来のことを夢見ている人は、未来がバラ色です。逆に現実に失敗している人は、お先真っ暗に見えてくるものです。その人の思考や行動によって期待値が変わるのです。頭や足が向いている方にバイアスが掛かりますから、バラ色に見ている人は期待値が高過ぎるきらいがありますし、お先真っ暗に見ている人は期待値がマイナスばかりになります。しかし現実は、そんな期待感とは関係なく、縁起の理法のとおり、原因に対し様々な要因が縁となり加わって結果が生み出されるわけです。期待と事実が違ってしまったとき、バラ色に見ていた人のショックは計り知れないものです。一気に落ち込み悩み始めるわけです。八つ当たりをするかもしれません。
 でも、期待通りの結果が表れなかったとしたら、これまで関わってきた様々な要因やあるいはそもそもの原因自体が、期待値を満足させるものではなかったということです。そこをきちんと見ていれば正しい期待値が導き出せたでしょうから、そんなに大きく期待と事実が反することもなかったのではないでしょうか。上必要に暗くなることもなかったはずです。どこかにバイアスが掛かり自分勝手に淡い期待を抱いていた結果、自分で悩みを作っているわけです。人は考える力があるから悩むわけですが、その考えが中途半端だから悩むのだともいえますね。

5、 人生の選択肢(1)何も働きかけない

 さて、それぞれパターンは違っても人は悩みます。そのとき、人生にはどんな選択肢があるのでしょうか。私は、3つの選択肢があると考えています。 そのうちの一つは、自ら何も働きかけようとしないという選択肢です。悩んだら、悶え苦しみ、ただ悩みぬくのです。多くの人はそうすることしかできないはずです。悩み苦しみながら人生を生き、そして死んでいくのです。逆に言えばそんな人が多いからこそ、宗教が世界に広がったわけです。宗教の大きな目的の一つは、個人の安心立命です。要するに苦悩から抜け出すありがたい方法が説かれています。でも、多くの人は本当の意味で苦悩から抜け出す方法を実践しません。何も働きかけることなく、ただ悩み続けるわけです。

6、 人生の選択肢(2)欲を捨てる

 二つ目の選択肢は、一部の高尚な仏弟子のように修行によって欲を捨てようとします。一般に苦悩の起こる原因が事実と期待との矛盾であるとするならば、期待を持たなければ悩まなくて済むわけですから、全ての欲望や執着を捨て去ることで、悩みから脱却することができるはずです。しかし、全ての欲望を捨てるということは生きることへの執着を絶つということにもつながりかねません。果たしてそうまでして悩みから抜け出す意味があるのでしょうか。

7、 人生の選択肢(3)欲望を浄化し可能性を信じて正しく努力する

 最後の選択肢は、欲望を浄化し適切な目標を見出した上で、自分の可能性を信じて正しく努力するということです。金剛禅門信徒は、こういう生き方を選択すべきなのです。釈尊はこれを四諦・八正道として教えられました。
 最初にお話ししたNHKスペシャル「ワーキングプア《、この番組をまとめた本を最近読みました。そこに出てくる話しは、悲惨なものばかりです。本当にかわいそうで何とかしてあげたいと思います。でも「努力したのに報われない社会はおかしい《とコメントした取材陣の考え方は、悩みに対して何も働きかけない生き方そのものです。原因と様々な縁を読み解けば、自ずと答えが見えてくるはずです。その答えを探すことなく、ただ社会が悪いから社会を何とかするべきだというのでは、あまりにも短絡的過ぎると感じました。例えば、業績優秀で企業価値の高い会社の株が低迷したとき、「株主価値に見合った株価をつけていないマーケットは間違っている《と言っているようなものです。理論上のバリュエーションがどうであろうとも、非効率的なマーケットの需給バランスによってコンセンサスの得られた株価がその時点での実質的な株主価値になるのであって、それは正しいとか間違っているとか言ってみたところで何の意味もありません。現代資本主義社会の実体経済においては、労働者は資本家に対する商品として労働力を提供し、その代価として報酬を得ています。ですから、グローバル経済の労働力市場でつけられる価額が、需給バランスによって成り立っているのは当然のことです。そう考えれば、現代は労働力の商品価値が下がり続けているトレンドの真っ只中にあるわけです。少なくとも、市場がプレミアムであるとみなす能力を兼ね備えた労働者以外には、さしたる需要が無いのが現状です。それは、正しいのか間違っているのかと考えたところで仕方の無いことです。天下のNHKが、そういう大きな経済の潮流に目を向けないで、ただ社会が悪い国が悪いというコメントを出すだけでは、やはりお粗末としか思えないのです。そんな内容では、ワーキングプアの増加トレンドを止めるどころか拍車を掛けてしまいかねないと、私は感じました。何しろここにも縁起の理法は働いていますからね。 人一倊働いて努力しても結果が思わしくないのであれば、一つにはそもそも正しい期待を描いていたかどうかが問題となります。期待収益率はバイアスがかからないものの見方をしない限り絵に描いた餅となってしまいます。そして次に、その期待に対して正しい方向の努力をしているかどうかです。富士山に登って感動的な初日の出を拝むということを期待したとしたら、ここ大館から静岡方面に向かわなければ富士山にたどり着くことはできません。どんなに一生懸命歩いても北海道に向かっていては駄目なのです。また、たとえ静岡方面に向かうとしても除夜の鐘が鳴ってから大館を出発したのでは、どんなに急いでも初日の出を拝めるはずがありません。急所の位置、間合い、角度、速度、虚実。まさに当身の五要素です。そして最後に、自分ではどうしようもないことが待ち受けています。どんなに一生懸命努力して日が出る前に頂上に着いたとしても、天気が悪ければ初日の出は拝めません。こればっかりはどうしようもないのです。人生にはどうしようもないことがあります。もしも天気が悪ければ、しょうがないものはしょうがないと諦めることが肝心です。
 ところでもちろん、社会に対する働きかけは大切です。弱者を守ることが真の勇者のあるべき姿ですから、私たち金剛禅門信徒も彼らを守る方策をじっくり考えていかなければならないと思っています。ワーキングプアになってしまった人を批判しているのではありません。当然弱者は悪ではなく、強い者が守ってあげるべきは弱い立場の人たちそのものなのですから。 今話題にしているのは、私たち金剛禅門信徒が仮にその立場に立ったとしたらどういう人生の選択をするべきなのかを考えて欲しいからなのです。金剛禅門信徒ならば、「こんなに努力したのに報われない《と嘆き苦しんでいてはいけない。八正道にあるとおり「正見《「正思《そもそもの出発点が間違っていないか見直して正しい期待を描きなおし、縁となり得る変数を変えてみたらどうなるか考えて、そこに向かって正しく努力するように自らを改善していく。そんな生き方こそが自力宗の自力宗たるゆえんです。決して、努力したという過程が大事なのではありません。結果を出すことが大切なのです。結果を出すために考えて行動したという、そんな努力だからこそ価値があるのです。
 悩みは、多くの場合失敗に関連して生じます。その失敗に気づくのは最初の決断のときなのか実際に痛みを味わったときか、それは様々です。あるいはもしかすると、ただ失敗することを恐れ取り越し苦労して悩んでいるのかもしれません。いずれにしてもうまく行ったときやうまく行くと思っているときにはあまり悩まないものです。まあ、うまく行き過ぎていると次に失敗するのではないかと想像して悩むことはありますけどね。 失敗は、そのままでは悩みの種でしかありません。けれども、霊止がその失敗に学び新たな方策を考えて正しい努力を始めれば、失敗は霊止を大きく成長させてくれる成功の源となるのです。小さな失敗に学び自らを改善していけば、大きな失敗を犯す危険が少なくなります。はじめから失敗を想定してそれに対するカバーもできるようになります。流水蹴をするときになぜ仁王受もするのでしょうか。それは最初の思惑がはずれたときのためのカバーですよね。リスクヘッジです。人生には取り返しのつかない失敗があります。そんな失敗を犯さないために二重にも三重にもカバーをしておく必要があるわけです。だから私は、失敗をチャンスだと思っています。小さな失敗は、大きな失敗をしないための防波堤になるからです。自分が失敗したときは自分が変わることのできるチャンスですし、門下生が失敗したときにも教育的な働きかけをするのに最高のチャンスです。だから失敗にショックを受けていつまでも暗くなっていてはいけません。時間の無駄です。お神楽をあげた時、一発や二発攻撃を食らったとしてもそこでうずくまっていたのではボコボコにされてしまいます。当たり前に考えれば、まずは間合いをとって、もう一度戦略戦術を練り直してから戦いに臨むはずです。「絶対に殺されてたまるか!《、「霊止としての誇りを捨ててたまるか!《というある種のこだわりや執着は持ち続けていなければなりません。極限状況を生き抜いた人は、みんな「生《に対する強い執着、諦めない気持ちがあったはずです。その場をどうやって切り抜けたらいいか、諦めずに考えて行動する。そのためには思惑から外れたときには、こだわることなく搊切りすることも必要でしょう。常にどうしたらうまく行くかを考え努力する。思考停止に陥ってはいけないのです。 苦しみ悩むのではなく、楽しみながら考えて行動する。変化を楽しみましょうよ。自らの努力によって強くて優しい人になろうと修行しているわけですから、義理と人情で想像し共感したら、合理的に考え期待に沿った結果が出せるように正しく行動する。社会や他人に責任を押し付けるのではなく、自己責任と結果責任を負った自力宗の門信徒として、そんな人生を一緒に歩いて行きましょうよ。ただ、中にはどうしようもないこともあります。そんなときにはしょうがないことはしょうがないと諦めることだけが唯一の解決策です。そのこともお忘れなく。人事を尽くして天命を待つ。それが我々金剛禅門信徒の生きる道なのです。

以上

 なお、このWEBサイトは、当道院平泉雅章拳士の企画製作により運営されています。この場を借りて感謝を申し述べます。

(宗)金剛禅総本山少林寺大館三ノ丸道院

道院長   小 林 佳 久

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