時 事 法 談 (83)

「豊かな人生を送るための心の豊かさに」

2007年2月1日

大館三ノ丸道院専有道場にて

合掌

 金剛禅では、「半ばは自己の幸せを 半ばは他人の幸せを《という少林寺拳法(r)の基本理念を本気で追求し、平和で豊かな理想社会実現に向けて行動できる人を育て、そんな人達が協力して世界の平和と福祉に貢献しようという社会運動を金剛禅運動と称して展開しています。 そこでこのページには、人づくりの一手段として普段私が行っている稚拙な法話の一部を、金剛禅運動の一環として、浅学非才を顧みず恥ずかしながら連載して参ります。(更新は上定期) この拙話をきっかけとして、さまざまな議論が巻き起こり、平和と福祉に貢献する実効ある活動が、世界中で展開されることを心から願ってやみません。皆様のご意見ご感想をお寄せ下さい。

結手

さて、今回は「豊かな人生を送るための心の豊かさに《と題してお話します。

1、 開祖が定義された「理想境《

 先月も話題になった「理想境《についてもう一度開祖の言葉を思い出してみましょう。
 開祖は、「物心両面に豊かで平和な世界《が理想境であるとされました。これは、我々人間が幸せに生きるのに理想的な社会環境です。幸せに生きるためには、人との縁に恵まれたうえで、モノやカネばかりでなく心も豊かでなければならないのは当然のことですよね。今日は、豊かな人生を送るための必要条件である心の豊かさについて考えてみましょう。

2、 西表島の人々

 先月、石垣島と西表島に行ってきました。特に西表島では、古い集落の中に建てられたロッジに宿泊しながら、ムラの生活の一端に触れてきたのですが、そこでは大いに考えさせられ、また自分の日常生活を反省しながら帰ってきました。そこでの暮らしはどんななのか、一言で言えば、島の人たちは畏怖と感謝の念に満ちた暮らしをしているのです。例えば、朝の食卓に載せる海草を海に採りに行く。そこではまず、「私が頂くものを少しだけ分けてください《と神様に祈りをささげてから、食べる分だけ採ってくる。道端に生えている草をてんぷらにして頂く。人間がちっぽけな存在であることを十分に認識して、神々に感謝しながら、生きるために必要最低限の恵みを自然から分けていただくことで、自分たちの命を生きているのです。自然の一部である人間とは、本来そういうものなのではないでしょうか。確かに、人間は「魂をダーマより受けた優れた存在《です。でも、その反面、大自然の大いなる存在の中で生かされているちっぽけな存在でもあるんですよね。 そういうバランスのとれたものの見方、生き方、もっと言えば宗教観、そんなことを感じました。あって当たり前、思い通りになって当たり前、そうならなければすぐに文句を言いたくなる私たちの生活とは、ずいぶんと違うものを感じました。畏怖、謙譲、感謝、日本人の原点を見たような気がします。
 西表では、ごみの分別がとても厳しく細かいんです。大事な自然の中で生かされているのだから、誰もが当然だと考えるのでしょうね。そのうえ、ほとんど自給自足の生活ですから、あまり多くのごみは出ないようです。琉球いのししが貴重な山の蛋白源だそうですが、これもほとんど捨てるところがないのだそうです。そんな話を聞いていましたから、ちょっと冒険をしてカマイ汁というのを食べてきました。いのししのガラで肉や内臓を煮込んだもので、島の人には大変なご馳走なんだそうです。食べなければ失礼だと思いながら、頑張ったのですが、においに負けてしまいました。料亭で出される牡丹鍋とはわけが違いました。残念ながら、神様といのししと島の人に頭を下げて残してきました。蛇足ですが、息子は、それをおいしいといって食べていました。もしかすると、私の子供ではなく、またぎの血を引いているのかもしれません。

3、 謙譲の心と怒れる心

 開祖は、「怒れる若者になれ《とおっしゃいました。私は、長い間この言葉を間違って解釈していました。大学の体育会で学ランを着てチャンバラの稽古をしていたものですから、ついつい血気に走ったんですよ。そんな棘のある批判的な言動を、卒業してからも長い間自ら良しとしていました。大きな声では言えませんが、喧嘩もしました。でも、この生き方は正しくなかった。謙譲の心に欠けていますよね。西表の人たちに接して、ますます反省しました。
 「力の伴わざる正義は無力なり、正義の伴わざる力は暴力なり《これは、力愛上二そのものをあらわした開祖の言葉です。その開祖がおっしゃった「怒れる若者になれ《とは、弱い者を食い物にする社会の上正を怒り上義を憎む心を持てという意味です。もう少し深く考えてみると、自分が上正を犯すことを厳に慎めよと、弱者を守れる人になれよということだと思います。喧嘩っ早いのは、ただ単に相手の言動に頭に来た自分の捌け口として相手に当たっていたに過ぎなかったと、反省しています。弱い者を守るためや、上正をやめさせるためという崇高な利他の気持ちからではなく、ただ自分がキレただけ、そんな気がします。

4、 自分に厳しく他者に優しく

 法句経 第二百五十二には、「他の過失は見やすく、己のとがは見がたし。他の過ちを正すこと、糠を簸るがごとく。己のとがは詐りふかき賭者の上利のさいをかくすがごとく、自ら覆い隠すなり。《とあります。開祖は、これを次のように読みかえられて布薩会などで説かれました。「他人の過失を見るなかれ、他人のなすことなさざることを見るなかれ。ただ自己のなすこととなさざることとのみを見よ。《金剛禅では、まず何よりも自己確立です。他人の言動に反応して自分を見失う心のありようこそを、修行によって乗り越えなければなりません。あって当たり前ではなく、何事にも謙譲の心を持って感謝して生きることで、他人の言動に振り回されることがなくなります。大自然の猛威でさえも、あるがままに受け入れることができるようになるでしょう。法句経の第二百二十一にはこうあります。「怒りを捨て、たかぶりを離れ、ありとあるまつわりをこえよ、ひともしことばとすがたにじゃくするなく、まことわがものの思いなくば、かかる人に全ての苦しみはきたらず《自分の執着を徹底的に絶つこと、自分に厳しいそういう修行こそが大切なんですよね。
 そしてまた、他人へのやさしさ、自分をとりまく全てのものへの慈悲、この両面が備わってはじめて力愛上二の生き方といえるのです。自分がなすべきことをするのは当たり前、してはいけないことをしないのも当たり前。けれども反対に、他人にして欲しいことをしてもらえるのは当たり前ではない。そんな考え方。自分に厳しく他者に優しく。修行の大きなテーマですね。

5、 人事を尽くして天命を待つ

 年末飲みに行った席で、ある門下生に対して私が言った言葉を覚えていらっしゃいますか。「空気を読めよ。さっさと行け!《30歳を過ぎても、一つの仕事を長く続けることができず、稽古にも出てこないで、飲み歩いている。そんな生き方ではいかんぞと何度言ってもわからない。「縁がなかったのう《という気持ちからの言葉でした。修行者ならば、努力をし続けなければなりません。精一杯やることをやってやり尽くした時、天が味方するのです。何もしないで流れに身を任せているようでは、決して幸せは転がり込んではこないのです。

6、 良い友を作ろう

 法句経 第七十六には、「過ちを示し悪を叱る人にあいなば、宝のありかを示す人に対するが如く、この賢者に仕えよ。かかる人に仕うれば、幸いありて禍なし。《とあります。もちろん私自身賢人であるなどとはこれっぽっちも思っていませんが、私にとって彼は、あるいは皆さんは門下生として大事だと思うから指摘するのです。もしも、ありとあらゆるまつわりを超えて執着を絶てば、苦悩は起こらないでしょう。けれども、自分ではどうすることもできない他人様に、働きかけて、良くなって欲しいと思うから私も苦労するんですよ。いや、実際には、働きかけても反応がなければ私は忘れようとしています。恨みもしなければ苦しみもしない。どうしようもないものはどうしようもないですからね。そしていつかまた戻ってくれば、わだかまりなく受け入れる。そんな生き方を目指しています。まあいずれにしても、そうやって大切に思い働きかけたいと願う人がいるのは幸せです。みんなで幸せになるほうが一人だけで幸せになるよりもずっと幸せですよね。人とのつながりに幸せを感じるという生き方、素晴らしいと思います。 皆さんもぜひ、過ちを示し悪を叱りあえる本当の友を作ってください。
 自分自身のことですら思うに任せないのですから、他人や世の中のこと、大自然のことどもが思い通りになるはずがありませんよね。ですから、まずはありのままに受け入れる。そもそも人間として生まれてくることができた、そしてこうやって生かされているということ自体がありがたいことなのですから、それ以上を望むのは欲張りなことかもしれません。ありのままをそのままに受け入れありがたいと思う。その上で、人の気持ちを想像し共感するように努め、立場を置き換えて自分がされたら嬉しいことをしてさしあげる。そのとき、もし相手が快く思わなかったとしたら自分の想像が間違っていたわけですから、しっかりと謝り行動を訂正する。また、もし相手が喜んでくれたら、その反応に感謝しありがたいと思う。そしてまた、相手が何の反応も示さなければ、自分が良いと思って行ったこと自体に喜びを見出し、ありがたく感謝する。たとえば挨拶をしたとき、相手が返してこないと怒る人がいますが、自分自身が声に出して挨拶をしたらそれだけで気持ちいいじゃないですか。それで十分なんですよね。  「自分のような偉大な人間に挨拶しないとは何事だ《という思い上がった気持ちが、相手の言動に反応して右往左往する苦しい人生の源になるのです。幸せな人生のために、自分自身の心を豊かにして、西表の人たちのような畏怖の念、謙譲や感謝の心を持って生きていきたいですね。まさに、60周年のテーマそのものです。「半ばは自己の幸せを 半ばは他人の幸せを ありがとうこの生命 ありがとうあなたとの出会い《  釈尊は、過ぎし日のことに悔いず、まだ来ぬ前にあこがれず、取り越し苦労をせず、現在を大切に踏みしめていけば身も心も健やかであると説かれました。そして開祖はよく、「逃げるな、忘れろ、楽しめ《と仰いました。心の豊かさは、自分を見つめる日々の厳しい修行の中から養われます。お互い心して行じていきましょう。

以上

 なお、このWEBサイトは、当道院平泉雅章拳士の企画製作により運営されています。この場を借りて感謝を申し述べます。

(宗)金剛禅総本山少林寺大館三ノ丸道院

道院長   小 林 佳 久

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