時 事 法 談 (81)

「教育を考える」

2006年12月5日

大館三ノ丸道院専有道場にて

合掌

 金剛禅では、「半ばは自己の幸せを 半ばは他人の幸せを《という少林寺拳法(r)の基本理念を本気で追求し、平和で豊かな理想社会実現に向けて行動できる人を育て、そんな人達が協力して世界の平和と福祉に貢献しようという社会運動を金剛禅運動と称して展開しています。 そこでこのページには、人づくりの一手段として普段私が行っている稚拙な法話の一部を、金剛禅運動の一環として、浅学非才を顧みず恥ずかしながら連載して参ります。(更新は上定期) この拙話をきっかけとして、さまざまな議論が巻き起こり、平和と福祉に貢献する実効ある活動が、世界中で展開されることを心から願ってやみません。皆様のご意見ご感想をお寄せ下さい。

結手

さて、今回は「教育を考える《と題してお話します。

1、 いじめと自殺

 子供のいじめと自殺、嫌なニュースが毎日のように続きますね。そんな中なんとか歯止めをかけようと、最近ではいじめをした生徒を積極的に出席停止にするべきだなんていう話も出てきています。確かにいじめは絶対にしてはいけないことですが、もしも、いじめた子供全てが停学の対象となったら、停学にならずに学校を卒業できる人はほとんどいなくなってしまうのではないでしょうか。今までの人生を振り返って、自分は誰一人をも傷つけたことがないなどと言えますか。また停学にするための基準を決めるとするのならば、こんないじめは良いけどこういういじめは駄目だなどと、人を裁く場ではない教育の現場でいじめの許容範囲を決めるのでしょうか。どうも日本中の議論の方向が間違っているように感じてしかたがありません。

2、 創始60周年記念シンポジウムの報告

 さて、先月3日に秋田市で、「少林寺拳法創始60周年記念シンポジウム《が開催されました。皆さんには残念ながら参加いただけませんでしたので、ここで当日の様子をお知らせしておきます。
最初に、新井会長の講演会がありました。新井会長ご自身がどのように少林寺拳法と関わってこられたのか開祖との思い出を絡ませながらお話になり、「少林寺拳法が目指す人間像《について解説されました。
そのあとシンポジウムに移りました。県警本部少年課の係長から少年犯罪は減少してきているが、多動や発達障害などが増加し困難な事例が増えているとして社会環境の悪化を指摘されました。県教育庁の健康安全教育監からは、下校途中の上審者が多いとの報告があり、子供の見守り活動を組織化していると話されました。県PTA連合会の母親委員長からは、教育の出発点は家庭であるとして、手をかけすぎる母親と無関心な母親の問題点を指摘されていました。特に、転ばぬ先の杖を親が差し出すことにより指示待ち症候群を作っていると展開されました。青少年育成県民会議の常務理事は、社会的自立が遅れている子供への自立支援の大切さを説かれたあと、新井会長の講演の中から、「弱者を強者が背負う《とか「可能性を信じる《とか「負けたと思うな《などの多くのありがたいキーワードを教えていただいたと仰いました。
最後に新井会長が、現代は社会の中で学ぶシステムが崩壊しているとして、若者が興味を持ちきっかけを持つものを提供できるように多くの団体と協力しながら我々が考えていかなければならないと、まとめられました。
参加者のアンケートを見ると、大変良い反応が返ってきており、自画自賛かもしれませんが素晴らしい行事であったと思います。これをきっかけに、人づくりによる国づくりの幸福運動をますます展開していかなければならないと、指導者としての責任の重さを痛感しています。

3、 教育の根本を考えよう

 さて、それではここで教育の根本とは何なのか、皆で考えてみたいと思います。皆さんは、子供たちに何を一番教育しなければならないと考えていますか。学力ですか。最近は「生きる力《という言葉も使われていますが、教育の目的とはなんでしょうか。今議論されている教育基本法改正案には、第1条に教育の目的としてこう書かれています。「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家および社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。《要するに究極の目的は、将来幸せに人生を送ることができる人間に育てるということだと思います。では、幸せに生きるためには何が必要なのでしょう。開祖は、「平和で豊か《ということと「人のえにし《ということを幸せのキーワードにされました。物心両面に豊かで自他共楽の理想境をまず自分の周りに作ることが、幸せになることなんですよね。とすれば、人間的にも経済的にも自立した上で人と協力して理想境建設にまい進できる力を身につけさせてあげることが教育の目的ではないでしょうか。
金剛禅流にいうのならば、自分がちっぽけな存在であることを知りそれでも無限の可能性を秘めていることを信じるというダーマ信仰から始まり、世のため人のために生きる使命を帯びて生かされて生きていると信じて、自らを確立させ他のために行動させることが教化育成の究極の目的です。言葉をかえれば、「教育とは、人の霊止たる我に気づかせ、どんな極限状況に追い込まれても剥げない厚い金鍍金を施していく作業《だと私は考えています。

4、 失敗は教育のチャンス

 そう考えると、教育において子供の失敗は最大のチャンスです。人間は、うまく行っているときには何も考えません。たとえそれがたまたまうまく行っているだけだとしても、自分はうまくできるのだと勘違いしてしまうものですよね。そう思っている時に、お前のやり方は間違っていると説かれても、聞く耳を持たないのが普通です。自分について考えてみても、そう思います。失敗した時にはじめて、自分の行動を振り返るのではありませんか。失敗して、どうして失敗したのか自分なりに考えているときが絶好の教育のチャンスなのです。だから転ばぬ先の杖を親が差し出して、失敗を未然に防いではいけないんですよ。
よく「出来の悪い子ほどかわいい《といいます。出来が悪いという表現は、失敗が多いというということですよね。失敗が多ければ、それだけ指導するチャンスがあるということで、指導する者のアプローチがダイレクトにかえってくるのですから当然かわいく思えてきます。何も言わなくてもきちんとできる子供には、指導したくても指導するところがない。教育というのは、できの悪い子を良くしていくところに腕の見せどころがあるのであって、初めからしっかりできる子を集めておいてその子達が活躍したとしても、それは指導が素晴らしかったとはいえませんよね。
子供が失敗した時、それはその子を指導する最大のチャンスが訪れた時なのです。その機会を逃さずいかに素晴らしい指導ができるか、そこに指導者の腕の見せどころがあるのですよ。それは何も他人を指導するときばかりではありません。自分自身の修行に主体的に取り組むとき、自己確立において自分自身を導くのにも同じことが言えます。もちろん、小さな失敗をしっかりと反省することなしに成功はあり得ませんよ。その積み重ねをしなければ取り返しのつかない大失敗をしてしまいますからね。さまざまな失敗を乗り越えてこそ大きく成長できるのです。「達磨さんだって七回転んだんだから、我々凡人は九転び十起きだ《と開祖もおっしゃっています。失敗しないような奴は、大成できません。出来の悪い子の方が立派になれるんです。うまく導きさえすれば、失敗の中から他人の感情に対する想像力や共感する力も生まれてくるのだと思います。

5、 「いじめ撲滅《と「理想境建設《そのどちらも道程は同じ

 ところが、今の教育議論では、子供の失敗を絶対に許さない風潮があります。いじめた者も失敗、いじめられた者も失敗、いじめを止められなかった者も失敗です。そんな中で、いじめをしたら停学にするという事は、いじめた者の失敗だけは絶対に許さないという姿勢ですよね。確かにいじめは決して許されるべきことではありません。死者が出るまで放っておくのは論外です。でも、人は失敗を犯すものです。まして成長途中にある子供ですから当然です。失敗を許さないという態度ではなく、失敗から学ばせるということが大切なのではないでしょうか。それこそが教育です。 人は自然に社会性を身につけるものではありませんから、良いことと悪いことの区別がつかない子供の頃は、自分に悪気がなくても失敗を犯してしまうものです。その時々に応じ普段の行動をとおして、大人が子供に他律的に善悪を教えていかなければ子供の正義感を引き出してあげることなんかできないのです。子供は試しながら善悪を覚えていきます。スーパーなどで地団太を踏んで泣き叫んでいる子供がたまにいますが、そうやれば自分の欲望が満たされることを知っているからそうするのです。普段から泣こうがわめこうがダメなものはダメだと教えられた子供は、ダメだといわれれば諦めます。それが本当にダメだと知っているからです。そうやって子供は、自分の行動が大人にどう評価されるかを試しながら成長していきます。失敗したときに、「これこれこういう理由で失敗したのであり、こうやってはいけないのだ《と教えられれば、子供は素直に理解し学習します。逆に、小さな悪事を見逃すと、どんどんエスカレートします。「ここまでやってもいいのかな、もうちょっとやってみよう。《そうやって取り返しのつかない悪事にまで手を染めてしまうのは、ジュリアーニさんの「割れ窓理論《を持ち出すまでもなく至極当然だと思います。 ただ、ここで問題なのは、大人が終始一貫して指導できるかどうかです。正義とは何だと思いますか。「上正でないことが正義であり、自分さえ良ければいいと思う心が上正の根源である《と開祖は明確に定義されました。こういう確固たる価値観が指導者になければ終始一貫して指導することはできません。今の教育問題の根源は、指導者にゆるぎない価値観がないところにこそあると私は考えています。 話を戻しますが、いじめは、やられた方がいじめられたと思ったときに成立します。大人の嫌がらせもそうですよね。やっているほうにその気がなくとも、「いじめられた《とか「嫌だな《と思われたら、それはいじめになり、セクハラになりパワハラになるのです。そんな難しい判断を必要とする能力が、全く失敗することなく身につくと思いますか。 いじめは絶対にしてはいけないことだから、いじめた子供は否応なく停学処分・・・。考えても見てください。学校に来ている間ですらその子を指導できなかったのに、学校に出てこない子供に対してどうやって教育しようというのでしょう。そしていざ停学が解けて帰ってきた子供が、今度はどんな立場に追いやられるのか。今のいじめは、昨日のいじめっ子が今日のいじめられっ子になるのです。 一方いじめられた子供に対しては「あなたは全く悪くない《と言って、逃げることを教える。大人になってもっと激しいいじめにあったとき、そのいじめられた子供は生きていけるのでしょうか。もちろん、「どんなにいじめられても自分の本分を死守しろ!《なんて言うつもりはありませんよ。そんなことを言ったら大本営になってしまう。乱捕りで考えてみましょう。なめられたらいかんから、いったん防いだあとは即攻撃、どんどん前に攻め込んでいくことが大切ですよね。いったん退がればもっと攻め込まれてしまいます。気弱になったら駄目なんです。でも危なければ退がる事もあり得る。一時避難はいいんですよ。だけれども逃げるのはよくない。いったん逃げると、人間には逃げる癖がついてしまう。「転進《だとごまかして逃げた日本軍の末路を見てください。何をするかではなく、何を考えてするかが大事です。行動は同じように見えても、逃げるのと次に備えて一時避難するのとではまったく意味が違う。子供の頃の失敗が原因で一生逃げる人生を送るようになってしまったら・・・。そんな負け犬のような生き方、悔やんでも悔やみきれません。逃げろと教える大人はその子の一生に責任を持つ気があるのでしょうか。 死んでは元も子もない、だから一時的に避難させる。そして、周囲の協力を得てもう一度立ち上がらせて前に進んでいくことを教えなければ、立ち直れないじゃないですか。人生で最大の逃げは自殺です。「つらかったら逃げろ《と教えるのは、「苦しかったら死んでもいい《と言っているようなものなんですよ。人生なんて「苦《の連続です。そこから逃げるのではなく、必要だから生かされているのだと自覚させ、どんな苦労にも負けないで人間としての使命を果たすように教えるのが教育ではありませんか。いじめがあったとき、なぜいじめが起こったのか、どうしたら乗り越えることができるのか、そんな教育が一切なされないまま臭いものに蓋をされてしまう。そうかと思うと、「うちの学校では、いじめはなかった《と胸を張って報告する校長がいる。おかしいとは思いませんか。
 いじめは、人間の弱さから来る悪です。戦争も同じです。所詮人間は、異質なものを蹴落とすことによって自分たちが有利であろうとする自分さえ良ければいいというエゴイスティックな悪い心を持っている生き物です。この心を魄といいます。私たち金剛禅門信徒は、悪い心である魄を修め良い心である魂を養うという修養によって自己を確立し、社会のリーダーとして「自他共楽の理想境《を建設しようとしているんですよね。
 要するに、いじめのない世界も恒久平和も、人類最終の目標なんですよ。今すぐに実現するようなしろものではないのです。それなのに、「戦争反対!《と叫んだり、「いじめは絶対ダメ!《と叫んだりするだけで何とかなると考えるほうがおかしいとは思いませんか。いじめや戦争のない平和で豊かな理想境を目指して、一人ひとりの考え方や行動のあり方を良くしていこうというのが金剛禅です。そのためには、小さな芽のうちにその失敗を見逃さず、いじめた者に対しても、いじめられた者に対しても、そしていじめを止められなかった者に対しても、適切な指導をしていくことがとても大切なのです。いじめがこじれて自殺者が出るまで放っておくから問題なのです。それは、世間や教育者自身が、いじめというものをあってはならない事だと考えているからです。いじめはあって当たり前、失敗はして当たり前、そこから指導していくのが教育です。もちろん、いじめは必要悪などではありませんよ。絶対に許されないことです。戦争もそうですが、絶対に許されないことが実際には起こってしまうのです。大人社会のいじめを見てください。どれほどひどいことが平然と行われているか。そう考えれば、いじめが起きたと大騒ぎするのも、見て見ぬ振りをして小さないじめを放置したり隠したりするのも、ともに教育の放棄以外のなにものでもありません。管理教育でがんじがらめになっているのは、無責任だからです。子供たち一人ひとりをじっくり見て、その一人ひとりに対して今どんな教育が必要なのかを真剣に見きわめ少しでも早いうちに適切に指導していくこと、それこそが指導者に課せられた使命ではないでしょうか。  そうは言っても、現実に人の心を想像し共感することはとても難しく、いじめている子供、いじめられている子供、止められないでいる子供、それぞれがどんな気持ちでいるかを完璧に把握することなど上可能です。指導者も失敗します。恥ずかしいことですが、私も何度となく失敗しています。でも人の人生に責任を負っている指導者に失敗は許されない。だからこそ指導者は自分を磨き想像力や共感する力を身に付けていく努力をし続けるしかないのです。
 さて、ここでもう一度私の引っかかりに戻ります。最近の議論の方向がおかしいと感じているということについてもう少し突っ込んでお話しておきたいと思います。先日、いじめ問題を特集しているテレビ番組を見ました。そこで気がついたんです。「いじめ《という言葉でひとくくりにして、いろんなものをいっしょくたにまとめて議論しているから分けがわからなくなってしまっている。暴行だ恐喝だ吊誉毀搊だという犯罪まで、「いじめ《という言葉で議論しているんですよね。そんな議論の中教育再生会議から、「いじめ問題への緊急提言《が出されました。これは、文部科学省が以前出した「学校におけるいじめ問題に関する基本的認識と取組のポイント《を下敷きにしているようです。「緊急提言《には冒頭からこんな言葉が書かれていました。「学校は、子どもに対し、いじめは反社会的な行為として絶対許されないことであり、かつ、いじめを見て見ぬふりをする者も加害者であることを徹底して指導する。《これを読んで、よく言うわ!と思いましたね。「大人にもできないことを平気で子供に指導しろと言っているんですよ。よく言えますよね。タバコを吸っている子供に注意できる大人がどれだけいますか。公衆の面前で殴り殺される被害者がいるのをどう説明するのでしょう。ましてや通りすがりでなく力関係がはっきりしている閉じた社会の中で、上正を堂々と指摘できる大人がどれだけいますか。上司に同僚がいじめられていても、助けることが出来ない人のほうが多いはずです。目安箱が設置されていても、自分がチクったとばれてしまうかもしれないからと、尻込みするのではないですか。戦争反対を盛んに叫ぶマスコミが、いざ戦争への流れができつつあるとみれば、反体制の烙印を押されて国からいじめられるのが怖いのか、ころっと変わって皆一斉に陣太鼓を鳴らす。これが現実でしょう。大人自らが、見てみぬふりをするような、みっともなく恥ずかしい狂った社会を築いておきながら、子供には、「見て見ぬふりをすれば加害者だ《と脅すのですか。子供はますますどうしたらよいかわからなくなってしまう。 私は、門下生を一人自殺でなくしています。誰かが自殺すると、その周囲の人たちは必要以上に責任を感じてしまうものです。私も、多くの方々に話を聞いてもらいまたアドバイスを頂いて初めて心の平安を取り戻すことができました。いじめを止められない人たちの中には、心優しく何とかしてあげたいけれども勇気や力がなくて何も出来なかったという人がいるはずです。繊細な心を持った子供ならばただでさえ責任を感じてしまうのに、周囲から「傍観者も加害者である《などと言われれば、良心の呵責に耐えられず自ら死を選んでしまうかもしれない。あまりにも無責任な提言だと思います。その上、極悪な奴にはメッセージなど届きません。他人の感情を想像し共感することができないから平気で人を傷つけるのです。そんな人に何を話しても、ただ話して聞かせるだけでは心にまで届くわけがありません。それに対して心優しい人には、そのメッセージが強烈な脅迫として聞こえてしまいかねません。
友達同士のちょっとしたからかいレベルのいじめに対しては、あまり勇気がなくても「そんなことを言ったら可愛そうだよ《と指摘できます。でも、いじめが激しさを増してくると、怖くて何も言えなくなるのが普通ではありませんか。そんなときにきっちりと問題を解決できるのは、勇気と自信と行動力を兼ね備え慈悲心にあふれ「良いことは良い、悪いことは悪い《とはっきり主張できる本当の勇者だけなんですよ。開祖は、「人、人、人、全ては人の質にある。すべてのものが人によって行われるとすれば、真の平和の達成は慈悲心と勇気と正義感の強い人間を一人でも多く作る以外にはない《と気づいて金剛禅を開創されたんですよね。いじめの問題に限らず教育も政治も軍事も、要するに社会を変えるには、遠回りなようでも、信仰と信念にもとづく使命感をもった強くて優しくて賢い人を育てる以外にはないのです。しかも本当の強さは、理屈ではありません。「見て見ぬふりをするのも加害者なんだから、いじめを止められるように、お前も強くなれ!《と言うだけで強くなれるものではなく、たゆまぬ修行が必要なのです。そう考えると社会を良くできるのは、宗門の行たる少林寺拳法をおいて他にないと私は自負しています。 教育問題を解決する近道は、人生の基本を教える立場にいらっしゃる学校の先生に良くなってもらうことです。そこで、これからは幼稚園と小中学校の先生そして保育士の方々を主な対象として金剛禅を弘めていきたいと考えています。宗教を一番嫌う人たちに宗教法人としてアプローチすることが難しいのは良くわかっていますが、あえて道院として宗門の行として、しっかり戦術を練ってやっていこうと思います。学校現場に宗教を持ち込もうというのではありません。教師や保育士を職業とされている方々個人に本当に大切なことを伝えたいのです。人が人を指導するためには、どうしても信仰と信念にもとづいた強烈な使命感が必要なのです。宗門の行たる少林寺拳法でなければだめなのです。ご協力をお願いしますね。

6、 教育の両輪(「伝え教えること《と「考えさせること《)

 教育の方法は、「拳の三訓《と「拳の三要《がポイントだと私は考えています。「拳の三訓《は、ご存知のように「守・破・離《ですが、「守《とは常識でありみんなと同じようにできるということです。まずは、社会の常識を身につけさせ、皆と同じにできるようになるまで指導することが大前提です。最近では子供の個性を重視するあまりに、この常識を身につけていない、協力して社会生活を営むことのできない人間が増えていますが、そんな人がいじめられたりあるいは逆にいじめをしたりする確率は当然高くなります。いわれのないいじめも数多くありますが、いかにもいじめにあいそうな人間も数多くいるのは事実です。当たり前のことが当たり前にできる、社会的に、はじかれず他人と協調して生活できる。同時に他人の違いを認められる。そういう基本ができたその上で、個性を発揮し「破《や「離《に進むように指導していけばよいのです。もちろん、人と違うからといって弱い者をいじめるのは論外ですよ。私たちは、強い者が弱い者を背負って向かい合い互いに助け合うという意味の「行《を修めています。 自立できない弱い人を、私たち少林寺拳法の拳士がそして社会全体がやさしく見守り助けていけるそんな世の中を作ろうとしているんですよね。
 「拳の三要《は、「技・術・略《です。教育では、「伝え教えること《と「考えさせること《の双方が車の両輪にも似て、どちらもはずせないとても大切なことだと思います。人生の目的については、指導者が明確に伝え示さなければなりません。ダーマ信仰と使命感です。人生の究極の目的を知らせ、具体的に人生を歩むための技や武器を身につけさせてあげる。つまり、「略《や「技《はきっちりと伝え教えることが大切です。けれども同時に、いかにして人生を歩むかという「術《の部分は、自分自身で考えていかなければなりません。その考える力をはぐくむことも大切な教育です。この「伝え教えること《と「考えさせること《それを、「守《の段階できっちりと指導すれば、あとは、個性を発揮して自分から学び人生を力強く自主的主体的に生きてくれるはずです。「教育とは、人の霊止たる我に気づかせ、どんな極限状況に追い込まれても剥げない厚い金鍍金を施していく作業《です。指導者は、目先のことにとらわれず、しっかりとした価値観と使命感をもって、正しい目的と手段で教育を行っていくことが大切だと思います。
 大人は皆、子供の指導者であるべきです。また、社会的にも皆さんは指導的立場にいらっしゃいます。そして何より、全ての人は自分の人生を誰か他人の手にゆだねるのではなく自立して自主的主体的に生きていくべきですから、自分は他でもない自分自身の指導者でもあるのです。心して生きていきましょうよ。

以上

 なお、このWEBサイトは、当道院平泉雅章拳士の企画製作により運営されています。この場を借りて感謝を申し述べます。

(宗)金剛禅総本山少林寺大館三ノ丸道院

道院長   小 林 佳 久

 ご意見・ご感想は大館三ノ丸道院長、または大館三ノ丸支部ホームページの「拳士のひろば《へお願いします。