時 事 法 談 (80)

「少林寺拳法が宗門の行である理由」

2006年11月2日

大館三ノ丸道院専有道場にて

合掌

 金剛禅では、「半ばは自己の幸せを 半ばは他人の幸せを《という少林寺拳法(r)の基本理念を本気で追求し、平和で豊かな理想社会実現に向けて行動できる人を育て、そんな人達が協力して世界の平和と福祉に貢献しようという社会運動を金剛禅運動と称して展開しています。 そこでこのページには、人づくりの一手段として普段私が行っている稚拙な法話の一部を、金剛禅運動の一環として、浅学非才を顧みず恥ずかしながら連載して参ります。(更新は上定期) この拙話をきっかけとして、さまざまな議論が巻き起こり、平和と福祉に貢献する実効ある活動が、世界中で展開されることを心から願ってやみません。皆様のご意見ご感想をお寄せ下さい。

結手

さて、今回は「少林寺拳法が宗門の行である理由《と題してお話します。

1、 宗教とは何か

 ブロック大会、小教区研修会、合宿と大変お疲れ様でした。大会では、30年ぶりの緊張を味わった方もいらっしゃいましたね。楽しんでいただけたものと思います。
さて、懇親会の席で宗教について話が出ました。今日は、そのあたりから話をはじめてみたいと思います。最初に、教範の「宗教とは何か《を読んでみましょう。(略)
次に、日本の宗教事情を僧階教本からご紹介します。(略) 要するに、日本の宗教の多く特に歴史ある教団は、いまだに原始宗教の域から抜け出ていないのです。日本人の一般的な宗教感覚は、民間信仰・土俗信仰であり民族宗教であるといえます。祭りと忌、年中行事、冠婚葬祭などの通過儀礼、そして俗信です。よく「我が家の宗教《という言い方をしますよね。私の信仰ではなく家が寺に縛り付けられている、檀家制度そのものです。こんな状況だから、開祖は、こと宗教に関する限り、「日本人の精神年齢は幼稚園児以下である《と嘆かれたのです。本来の正しい宗教とは、葬式などの通過儀礼が大事なのではなく、生きている人間がいかに生くべきかを説くものです。儀式や行事は、生き方を説くための一つの手段に過ぎないのです。

2、 金剛禅とは何か

 それでは、金剛禅とはなんでしょうか。みなさんは、端的に説明できますか。
まず何よりもはじめに、ダーマ信仰です。大いなる力、大霊力、他力、つまり、自分たち人間のちっぽけな力ではどうすることも出来ないとても大きな力が宇宙には満ちている。それをダーマと称え信仰するのです。
そして、人間は、その分霊を受けて生まれた「霊止(ひと)《であると信じる。これは信じるのであって証明される必要のないものです。誰がなんと言おうと、我々金剛禅門信徒は、人間とはダーマの分霊を持って生まれた霊止なんだと信じるのです。
さらに、そんな人間は優れた存在なのだから、使命があると信じます。これもそう信じればよいのです。
その使命とは、世のため人のために生きるということであり、自他共楽の平和で豊かな理想境を建設するということにつながります。
私たちが受けた霊止としての優れた可能性は、磨かなければ光らないものであるから、使命を達成するためにも拳禅一如の修行によって自己を確立しようと努力します。
そんな修行を続ける同志とともに、自他共楽の理想境建設に邁進します。
つまり金剛禅とは、他力を信じ、その力を受けた自分自身も信じて、使命を実現するために精一杯自力を尽くそうという教えなのです。どうです。教えの本質はとても簡単でしょう。行うのはやたらと難しいですけどね。

3、 開祖の願い

 金剛禅とは、開祖の願いそのものです。開祖が体験されたあの悲惨な戦争。そこから強い願いが生まれ、全く新たに考え出された教えが金剛禅です。人間は霊止としての優れた存在である。だから、協力して理想境を作る使命がある。そんな霊止は、誇り高くあらねばならない。だから極限状況でも恥ずかしくない徳ある生き方をしろよ。人間は必要だから生かされている。誇り高く生きて、誇りを捨てずに死のうぜ。そういう考え方、生き方を伝えるために金剛禅が生まれたのです。

4、 極限状況でも立派に生きる

 極限状況でも立派な生き方を貫くにはどうしたらよいかと、開祖は考えられました。その結果、まずは、まともな価値観を椊えつけようとされたのです。「自分さえ良ければ、あるいは自分たちさえ良ければ、それでいい《というのが上正の根源です。だから、「半ばは自己の幸せを 半ばは他人の幸せを《という確固たる信念が必要です。しかも、それは頭で理解するだけではだめで、心の底から信じきるという信仰に根ざしたものでなければいけないのです。信仰心が、その人のゆるぎない信念につながるからです。だから金剛禅は宗教なのですよ。人間の生き方に正面から取り組むまじめな教えなんです。
 ところが、まともな価値観を身につければそれで立派に生きられるかといえば、実はちょっと違いました。普段は立派そうに見えても極限状況では獣にも劣る人がいたのを開祖は実際に見てこられました。まあ最近では、極限状況ではなくてもすぐにキレてしまう人が多いですよね。堪え性がないんです。自分にとって極限だと感じるレベルが低い人たちが増えていると私は思います。極限レベルという概念は、乱捕りを思い浮かべるとわかりやすいですよ。初心者のうちはとにかく怖い。だからわけもなく逃げ回ったりしゃにむに叩きまわしたりします。有段者になってくると平常心が培われてきてちょっとやそっとでは動じなくなります。技術レベルが高まるだけでなく、自分の心の中にある極限レベルも高まるのです。二人で向かい合う乱捕りという状況設定は、初心者も有段者も変わりありません。でも、その人の心の問題、極限レベルが違うと、その行動も大きく変わってしまうものですよね。
 「食わなんだり、食わなんだり《、「殺し殺され、今日死ぬか、明日死ぬか《そういう客観的に見た極限状況になっていなくても、自分自身が耐えることのできるレベルが低いから、自分の極限レベルを超えてしまって、自分を見失う人が増えている。客観的には大した事態でもないのにうろたえてしまうのです。
 極限レベルを超えると、人は平常心を失います。平常心を失うと、信念も信仰もヘッタクレもなくなってしまいます。鍍金が剥げるのです。
 そこで、たとえ周囲の環境が極限状況になってしまったとしても、平常心を失わないように自分の心の極限レベルを高める修行、つまり、剥げない鍍金にするための修行が必要だと開祖は考えられました。だから金剛禅には易筋行があるんですよ。もちろん、易筋行の修行の意義は他にもたくさんありますが、私はそう考えています。
 要するに、「半ばは自己の幸せを 半ばは他人の幸せを《と、どんな状況にあっても考え行動できるようになろうというのが、金剛禅の教えなのです。

5、 誇りと使命

人間は、自分がすばらしいグループに所属していると思うとき、それを誇りに感じます。そして、そのグループを守りたい、もっと良くしたい、そのために自分も率先してよくありたいという使命感を抱くはずです。開祖は、その人間の本能的な欲求にも似た感性を利用されたのです。つまり、人間は霊止としての優れた存在であると信じさせることによって、人間であることの誇りを見出させようとされました。そして、その誇りから生まれる使命感を利用して、人間には、否、私自身には、世のため人のために尽くす使命があるのだと信じさせたのです。

6、 宗門の行としての少林寺拳法を修行しよう

 そんな教えが、金剛禅です。結婚式や葬式や法要は、世間一般と同じようにすればよいのです。もちろん、私たち金剛禅の僧侶は、金剛禅式にこだわります。でも、金剛禅式でなければ金剛禅門信徒として恥ずかしいというものでもありません。要は、儀式や行事ではなく、如何に生きるかです。
 少林寺拳法を単なるスポーツや武道として練習するのではなく、必要で生かされているのだから誇り高く生きて誇りを捨てずに死ぬために、宗門の行としての少林寺拳法を稽古しようではありませんか。どんなときにも決して剥げない鍍金を施す努力を生涯かけてしていきましょう。

以上

 なお、このWEBサイトは、当道院平泉雅章拳士の企画製作により運営されています。この場を借りて感謝を申し述べます。

(宗)金剛禅総本山少林寺大館三ノ丸道院

道院長   小 林 佳 久

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