時 事 法 談 (69)

「想像力」

2005年12月1日

大館三ノ丸道院専有道場にて

合掌

 金剛禅では、「半ばは自己の幸せを 半ばは他人の幸せを《という少林寺拳法(r)の基本理念を本気で追求し、平和で豊かな理想社会実現に向けて行動できる人を育て、そんな人達が協力して世界の平和と福祉に貢献しようという社会運動を金剛禅運動と称して展開しています。
 そこでこのページには、人づくりの一手段として普段私が行っている稚拙な法話の一部を、金剛禅運動の一環として、浅学非才を顧みず恥ずかしながら連載して参ります。(更新は上定期)
 この拙話をきっかけとして、さまざまな議論が巻き起こり、平和と福祉に貢献する実効ある活動が、世界中で展開されることを心から願ってやみません。皆様のご意見ご感想をお寄せ下さい。

結手

さて、今回は「想像力《についてお話します。

1、 最近の事件から

 広島の空き地で、ダンボール詰めした子供の遺体が発見され、ペルー人の容疑者が逮捕されました。何と言ったらいいか、あまりにも酷い。最近この種の事件が多すぎます。あちこちで通学途中の児童が襲われるなんて、一体、日本はどうなってしまったのでしょうか。
 また、建築士が耐震強度を偽造してとんでもない建物を建てていました。彼のマスコミへの対応をみると、全く他人事で、罪の意識のかけらも感じられません。でも、それって当たり前のことで、もしそこに住む人達に思いをいたし、想像することができていたら、そんな偽造などするわけがないのですから。事の重大性を考えないからこそできた犯罪ですよね。そんな奴らが他にもたくさん居るという空恐ろしい話まであります。本当に日本は狂って来ています。

2、 「想像、共感、行動《

 以前の法話で、「想像し共感して行動しよう《と呼びかけました。「普段から想像力や共感する感性を高め、行動力を培おう《と話しました。人は何かに接すると、一番初めに五感が働きそれによって感情が生まれます。これは、本能ともいえる魄の作用です。情動とも言いますよね。この段階で行動を起こしてしまうと、洗練された人間らしい行動にはなりません。幼児のような、獣のような、分別のない行動になってしまうのです。人間らしく正しく行動するために人間として行う最初の行為が、想像力を働かせる事です。魄を修める修行ができている人は、情動を抑えて魂が働きます。その最初の行為が想像するということなのです。想像することができなければ、共感する事もできません。そうすると、正しい行動をとれないということになるわけです。今日は、誇り高く生きる人間として最初に行う想像という行為について考えてみましょう。

3、 「ちいちゃんのかげおくり《

 小学校3年生の国語の教科書に、あまんきみこの「ちいちゃんのかげおくり《というお話が掲載されています。教科書には、「場面の様子を想像しながら読もう《とのコメントがついています。それでは、ここで朗読してもらいましょう。(略) いかがでしたか。先程、少年部の時間には子供たちに朗読してもらい、その感想などを聞きました。皆さんはどう感じましたか。多くの子供たちはこの作品を読んで、泣く事ができません。本当の意味で想像する事ができないのです。実際、今の小学校3年生には難しすぎるのではないかと私は思いました。あまりに悲しい出来事をとても清らかなオブラートに包んで表現されているので、本来ならばその悲しみがより増幅されるはずですが、経験のない子供たちにはきっと想像がつかないのだと思います。

4、 校長の死と平常心

 つい先ごろ、うちの子供たちが通う小学校の校長先生が、病気で亡くなりました。長い闘病生活だったようですが、苦しさをおして職場にも出てこられていたそうです。その後、子供たちは土曜日の朝学校に集められ、火葬に向かう校長先生と最後の別れをしてきました。次の週の初めに、学校から1通のプリントが渡されました。そこには、「悲しみを乗り越えて平常心で教育に当たる《といった内容が書かれていました。おそらく、そうありたいという願望をも含めて書かれたのだと思いますが、私はもっとうろたえた姿、悲しんでいる姿を子供に素直に見せるべきだと思います。子供たちには、そういう体験が少なすぎます。人の死に目に合う事もなければ、亡骸がどのように変化するかも見る事がありません。子供には酷だという意見があるのは承知の上で、辛い事や悲しい事を垣間見せるのが、想像力を働かせる原動力になると私は言いたいのです。
 戦争をオブラートで包んだ作品から、生々しい戦争を想像して泣く事ができるのは、生々しい戦争を知っている人だけです。実際の体験に勝るものはありませんが、本を読んだり映像や写真を見たり、話を聞いたり、そんな経験も戦争をイメージする力を私たちに与えてくれます。そういう経験のない人に想像しろという事自体、無理な話ですよね。

5、 「異国の丘《

 この間、劇団四季のミュージカル「異国の丘《を観て来ました。去年も「南十字星《を観たという話をしましたが、浅利慶太の「昭和の三部作《といわれる中の二つの作品です。ストーリーを劇団四季のホームページhttp://www.shiki.gr.jp/applause/ikoku /story.htmlから紹介しましょう。(略)
 「南十字星《の時と同様、この作品にも、最初から最後まで泣かされてしまいました。クライマックスでは鼻で呼吸できなくなって、酸欠状態でした。たくさんの人が泣いていました。学生も学校ぐるみの団体で観に来ていましたが、学生たちの多くも感動したように見えました。でも、その感動の深さには、やはり経験が左右します。どれだけ昭和史を知っているか、どれだけその人たちの生活を考えていたか、どんな恋愛をしたか。いろいろな経験が、作品を深く読み取らせてくれます。
 終わったあとで、ある男性が「学生には早すぎる。観るべき時期がある。《と、連れの人と話しながら歩いていきました。私はそうは思いません。確かに経験によってその味わいの深さに違いはあります。けれども、ミュージカルを観るということも立派な経験です。人は、いろいろな経験を積み重ねながら人生を歩く事によって想像力を養っていくものです。まだ若すぎるという理由から経験をさせないでいれば、いくつになっても想像力が育たないのです。先程、校長先生の死についてお話しましたが、人の死という深い悲しみの経験をし、そしてそれを乗り越える事によって、一まわりも二まわりも大きな人間になり、想像力豊かな人間性を養う事ができるのではないでしょうか。

6、 「はげみになる話《

 そういえば、JALの機内誌に浅田次郎が「つばさよつばさ《というエッセーを連載しています。11月号は、「はげみになる話《というお題で書かれていたのですが、とても愉快でしたので、気分を変えてこれを紹介しようと思います。(略)
笑えるでしょう。でも、これだって人生経験が左右しますよね。想像できない人は、笑えないと思いますよ。もっとも、ご自分の身に起こっている人も、決して笑えないでしょうけどね。

7、 「吉兆《と「ある高級中華料理店《

 今回の出張中、2軒の高級料理屋さんで食事をする機会がありました。その一軒は、かの有吊な「吉兆《です。素晴らしかったですよ。そのダシ、素材、包丁、焼き、器、何から何まで感動でした。料理ばかりでなくサービスの仕方も、さすがは超一流と感心しました。こういうお店でいつも思うのは、素晴らしい料理とサービスを提供するために、どれだけお客を想像しその満足と感動のためにどれほど心血を注いでいるのかということです。先日、少年拳士のお母さんが機関紙「三ノ丸ファミリー通信《を発行してくれましたね。その中で、「大会の結果を出すためにどれだけ練習を積み重ねたかが大切なのだ《というようなことを書いてくれました。「吉兆《の従業員も、彼らみんなが、想像し感動を思い描いて日々の技を練っている。素晴らしい事です。
 今回の2軒目の料理屋さんは、羽田空港の中にある中華料理屋さんです。ここも高級なお店なのですが、ちょっとした事件がありました。料理をサーブしてくるホールのおじさんが臭かったのです。ちょっとやそっとじゃない、いなくなってもまだ臭う。あまりのひどさに、思わず言っちゃいました。次の料理を運んで隣のテーブルに近づいてきたとき、「そのテーブルに置いて下さい。支配人を呼んでください。《そして支配人には、「お客に対する配慮が足りないのではないか。《と伝えました。その後のサービスは、別の人がやってきたのですが、例の人はまだ他のテーブルに対するサービスを続けているんです。臭いだけならば体のことなので仕方がないかもしれませんが、やはり人間性だと思うのは、靴を引きずって歩くんです。まるでサンダルを履いて洗い場に居るように、お客様のいるホールをだらだらと歩いている。そんな従業員に対して注意もできない支配人。このお店は駄目だと思いましたね。人はいろいろです。でも、適材適所に気を配り、教育を徹底するのが支配人の役目ではないでしょうか。ちなみに、同じ羽田でも別のターミナルにあるこの会社のお店は、とても雰囲気のいいサービスをしてくれます。全ては上に立つ人の質ですね。この支配人は、想像力のない人だと思います。一人の客からのクレームを全体に活かす事ができなかったわけです。一人が上快に感じれば、他にもそう感じながら黙っている人がどれだけいるか。そもそも、そんな従業員をホールに出す事自体、あまりにも想像力がなさ過ぎますよね。お店の姿勢が疑われます。

8、 開祖の技術に対する想像

 このところずっと、開祖の技を研究していますよね。科学的に解明できるようになって始めて、開祖の技の捕り方が想像できるようになってきたのですが、以前は、教範に載っている写真を見ても、これで投げられるのはおかしいとか、自分で飛んでいるんじゃないかとか、勝手に思い込んでいました。全く想像がつかなかったわけです。技術一つとっても、想像の範囲を超えると、神技に見えたりいかさまに見えたりするものです。もちろん開祖をいかさま師のようには見ていませんでしたが、開祖だからできたのだと思っていました。でも、開祖は神様じゃないんですよね。普通の人間です。開祖にできて我々にできないはずがないじゃないですか。最近になって原理がわかったら、開祖と同じ技が使えそうな気になってきたでしょう。想像できるようになってきたんですよ。

9、 想像力のなさが行動を過たせる

 想像しない事、あるいは想像できない事によって、人は過ちを犯します。中華料理店の支配人は、これから起こるであろうお店の変化を想像できませんでした。だから適切な行動が取れませんでした。例の建築士やディベロッパーたちは、自分の行動がどれほど多くの人命を奪い生活をめちゃくちゃにするか想像しませんでした。ほとんど全ての犯罪者は、自分が招いた結果を本当の意味では想像していなかったでしょう。昭和の戦争を引き起こし、日本を泥沼に引きずり込んだ当時の指導者たちも、結局想像力が欠如していたのだと思います。浅利慶太は、「語り継ぐ日本の歴史《と題してこう述べています。(略)どうです。開祖そっくりだと思いませんか。

10、 金剛禅門信徒ならば想像力を磨こう

 開祖の志を自分自身の願いとしている金剛禅門信徒ならば、心して想像力を磨いていかなければなりません。体験はもとより、読書をしたり、文化に触れたり、そして普段の人間関係の中で学んだり、少林寺拳法を行じたり、あらゆることから想像力を磨いていきましょうね。

以上

 なお、このWEBサイトは、当道院平泉雅章拳士の企画製作により運営されています。この場を借りて感謝を申し述べます。

(宗)金剛禅総本山少林寺大館三ノ丸道院

道院長   小 林 佳 久

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