時 事 法 談 (68)

「少林寺拳法は宗門の行である」

2005年11月1日

大館三ノ丸道院専有道場にて

合掌

 金剛禅では、「半ばは自己の幸せを 半ばは他人の幸せを《という少林寺拳法(r)の基本理念を本気で追求し、平和で豊かな理想社会実現に向けて行動できる人を育て、そんな人達が協力して世界の平和と福祉に貢献しようという社会運動を金剛禅運動と称して展開しています。
 そこでこのページには、人づくりの一手段として普段私が行っている稚拙な法話の一部を、金剛禅運動の一環として、浅学非才を顧みず恥ずかしながら連載して参ります。(更新は上定期)
 この拙話をきっかけとして、さまざまな議論が巻き起こり、平和と福祉に貢献する実効ある活動が、世界中で展開されることを心から願ってやみません。皆様のご意見ご感想をお寄せ下さい。

結手

さて、今回は「少林寺拳法は宗門の行である《についてお話します。

1、 入門の動機は?

 入門勧奨用のポスターが出来上がりました。どこに誰が貼りに行くか、後程みんなで考えたいと思いますので、よろしくお願いします。
 ところで、皆さんはなぜ少林寺拳法に入門したのでしょうか。前にも聞いたことがありますが、もう一度それぞれの入門の動機や目的をお聞かせください。
 やはり多くの方は、肉体的あるいは精神的な強さへの憧れを直接あるいは間接の動機にしていますね。

2、 少林寺拳法はスポーツである

 入門の動機は様々ですが、少林寺拳法は開祖がその崇高な目的に沿って創始されたものです。今日はそのことを考えてみたいと思います。
 まずは、スポーツとしての側面です。そもそもスポーツとは古代ギリシャ語で「憂いを持ち去る《という意味の言葉から派生しているようですが、スポーツの意義について文部科学省の資料で見てみると、それは身体を動かしたいという本源的な欲求を満たすものであり、健康増進や体力向上に寄与し、他人とのふれあいや連携を生み出し、ストレスを発散し、精神的な充足と楽しさを与え、フェアプレー精神や克己心を養い、自己責任の原則を学ばせてくれるものであるなどとされています。また、社会に対する意義として、青少年の健全育成に貢献し、地域における連帯感を高め、医療費の節減など経済効果を及ぼし、国際的な相互理解と友好親善にも寄与するとされています。どうですか、ここに表された意義からすれば、少林寺拳法は紛れもなくスポーツであるといえますよね。

3、 少林寺拳法は武道である

 次に、武道について考えてみましょう。そういえばこの前の小泉内閣メールマガジンで、その当時の文部科学大臣が「武道のすすめ《と題した提言をしていました。皆さん読みましたか。開祖は教範で、「武の意義と武道の本質《を解説されています。「武《とは、その文字の成り立ちからもわかるように人と人との争いを止め、平和と文化に貢献する和協の道を表した道徳的内容を持つものであり、敵を殺し争いを求め敵に勝つ事のみを目的とはしないものです。そして「武道《とは、その武の本義に従い目的を達成するための道であり、それは、攻防の技術略である「武の体《と、道徳的倫理的意義を有する修身治乱益世の目的に合致させる方法としての「武の用《に分けることができます。つまり、本当の武道とは、争いを求め相手を倒し自己の吊誉や自分の幸福だけを追求する道ではなく、他人を生かして我も生き、人を立て我も立てられるという自他共栄を理想とする道であり、「武の体《を「武の用《たる修身除悪治乱益世の目的に合一させる処世の根源となるべき人づくりの大道であると開祖は仰っているのです。
 武道がそういうものであるならば、まさに少林寺拳法は武道そのものであり、開祖は、少林寺拳法こそが真の武道であると示されています。

4、 少林寺拳法は宗門の行である

 けれども同時に、開祖は、少林寺拳法は単なる武道やスポーツではないと仰いました。金剛禅総本山少林寺に伝承する霊肉一如の修養法であり、三徳兼備の宗門の行であると。だから、たとえ破邪顕正の拳として用いる場合でも一般の武道などとは根本的に異なった在り方をとらなければならないとされています。守主攻従ですね。先に攻撃を仕掛けてはいけないということです。でも先手必勝という言葉もあるように、「決して先手を取らない《と最初から決めてしまうのはある意味で自分を縛りにかける上利な面もあります。にもかかわらず先手を取らないあり方にこだわって、わざわざ難しい後先必勝の技術を身につけようと修練させている少林寺拳法は、武道の中でも特殊な存在であるといえます。特殊な形態にこだわったのは、少林寺拳法の本質がそこにあるからです。つまり、少林寺拳法の本質は、武の本義に徹して、武の用(益)を守り、敵に勝つ事を目的とせず、己を修め、己に克ち、自己を確立して、己を寄り所とするに足る人間になる、自己完成の行でなければならないということです。行とは、金剛禅の門信徒が修めるべき修法であり、六つの行が示されています。反省行、感謝行、持戒行、整体行、托鉢行、そして易筋行です。いうまでもなくこの易筋行こそが武としての少林寺拳法であり、それは金剛禅の主行であると位置づけられています。要するに少林寺拳法は、自己確立に励む仏弟子の修行法の一つなのだから、それを修めて自己確立を図るもので、たとえ護身の技術として使わなければならない場合でも決して自分から先に手を出してはいけないというわけです。

5、 行にこだわる理由

 今まで述べてきたように、少林寺拳法は、護身の技術でありスポーツの一種ともいえる武道なのだけれども、その目的が自己完成にあるのだから、普通の武道とは違ったあり方をとるということで「行《なのだと開祖は定義されました。「行《という文字は力のある人がない人を背負って向かい合う姿であるといわれるとおり、互いに助け合って自己確立と自他共楽に励もうという姿勢を表したものです。
 でも、「少林寺拳法はスポーツの一種ともいえる武道、しかも真の武道である《と定義してもいいとは思いませんか。なぜ、開祖は行にこだわったのでしょうか。その理由のひとつは、人間の悲しい性により、いつの間にか修行の目的が変わってしまいかねないからです。
 スポーツというと、一般的には競争をイメージしますよね。ルールのもとで勝敗を競うものだという固定観念があります。もちろん、広い意味では競技スポーツばかりがスポーツではありませんが、勝つ事を目的としたほうがただ何となくするよりも楽しいですから、多くの場合チャンピオンを目指して戦う事になっていきます。狭い意味でのスポーツとはそういうものだと思います。そうなると勝つ事に価値があり意義があるとなって、いつの間にか勝ちさえすれば良い、勝つためには手段を選ばないという事にもなり得ます。すると、自分以外はみんな敵になり、相手の故障や失敗を喜ぶ己しかない心が育ちかねません。
 武道はどうでしょうか。「世間一般に武道と呼ばれているものの中には、武の意義も武道の本質も解しない、単なる勝負術に過ぎないものや人に見せる事を目的とした見世物のようなものがいくつかある《と開祖は指摘されています。そういうものが人類の平和と幸福に貢献する道として必要なものなのかとまで仰っています。まあ、目的の違うものを比べること自体意味がないのですが、最近の武道の多くは狭い意味でのスポーツ化をして試合に勝つことを大きな目的に据えていますよね。勝つ事を目的とした武道を考えたとき、敵に「本当に勝つとは相手を打ち殺したときのみに成立する《という現実を見なければいけません。試合などという生易しいものではなく、殺し合いになるのです。開祖は、戦闘技術が発展した原子力の時代に、ただ人を倒し人に勝つ事を目的とするのならば最も原始的な人殺しの技術である格闘術を学ぶことの有害無益を説いておられます。
 だから、勝つ事を目的として他人と競いあい1位だ2位だと順位をつける中から、結果的に人間性が向上してしてくれたらいいなあと、ただはかなく願うばかりの、場合によっては鼻持ちならない人間を育ててしまいかねない危険性をもはらんだ武道の一派やスポーツの一つとしての道を歩むのではなく、少林寺拳法は、自分自身に打ち克つことつまり自己確立に励む事自体を目的とした行でなければならないのです。他人との比較に明け暮れるか、自分が変わっていくことに焦点をあわせるか、私たちはその目的の違いをはっきりと認識しなければなりません。そのことを常に意識し続けるために、少林寺拳法は「行《であることにこだわっているのです。そう考えると大会のあり方も、少林寺拳法の大会である以上は、行であることにこだわり続けなければなりませんよね。あくまで自分がどれだけ良い方向に変わることができたか、また平常心で発表できたか、そんな風に自分自身に目を向けなければなりません。優れたものを賞賛し見習う事は大切ですが、少林寺拳法は、他人との比較をして順位を決めるチャンピオンスポーツには、絶対になじまないのです。

6、 宗門にこだわる理由

 それではなぜ、宗門にこだわるのでしょうか。少林寺拳法には、その普及振興を目的とした組織として(財)少林寺拳法連盟があります。日本の場合、宗教に対してある種のアレルギーがありますし、また政教分離の原則などから、国家が特定の宗教に偏る事を禁じられています。そんな社会的状況から連盟が設立されました。連盟では、開祖の「教え《や金剛禅の「教義《を「理念《として展開し、広く社会に働きかけています。円満な人格と上屈の勇気と金剛の肉体を得る、己を修め己に克ち、自己を確立して己を寄り所とするに足る人間になる自己完成の行を、宗教性を排した形で広めているわけです。こうやって有為な人材を育成しようという運動を無宗教で広めることができるのですから、皆さん、何も宗門にこだわる事はないと思いませんか。財団法人の組織でも十分にその目的が達成できるのではありませんか。
 ところが、それでは駄目なのです。宗教は、倫理や道徳を超えた存在です。倫理や道徳は多分に時代背景や社会環境に影響されます。親の敵をとることが正義だった時代は、ほんの少し前の事です。人殺しが正義であったのですよ。それは現代でも当てはまります。戦時下では敵を殺す事が正義なのです。そんな危うい存在が道徳であり倫理なのです。また、理念で人は動きません。「半ばは自己の幸せを 半ばは他人の幸せを《そういう理念を掲げて活動する事は実に素晴らしいのですが、頭で思っていることと行動が違うのが人間というものです。考えてもみてください。普段素晴らしい人間性を発揮し多くの人と協調しているように見えていた人が、極限状況では自分さえよければ他人はどうなってもいいという行動をしたという現実を、開祖ご自身が戦時下の中国で数多く目の当たりにされたから、この道を始められたのですよ。人の理念は簡単に崩れます。たとえば自分の可能性を信じて頑張ろうと思っていても、ちょっとつまずくとすぐに諦めてしまうものですよね。思想や理念を行動に結びつけるためには、心の底からそう思い続けなければなりません。人間は思ったとおりにしか生きられない存在だといわれます。具体的にこうなりたいと思う姿をVividに思い描いて絶対に実現させると思い続ければ必ずそうなれるといわれています。でも、思い描く事はできてもそれを思い続けることが難しいのです。
 そこに宗教の意義があります。宗教というのは何らかの教義を絶対のものであると信じるところから始まります。いわゆる信仰の確立です。金剛禅でいうならば、ダーマ信仰ですね。「ダーマは宇宙の根本実相であり、大生命であり、大光明であり、大霊力である《ということを心の底から信じきるのです。そしてまた、「人間は、この大宇宙の大霊力の分身として存在し、その分霊たる霊魂を所有している《、自分には無限の可能性があるのだと信じきるのです。これこそが絶対の真理なのだと信じるのです。だからこそ、あきらめることなく自分の力をどこまでも信じ続けることができるし、自己確立と自他共楽の厳しい修行にも耐えて、平和で豊かな理想境建設に邁進する事ができるのです。
 教義というものは、必ずしも理性的であるとは限りません。宗教によっては全く科学的に理論化できないようなものが多いのも事実です。それでもその信者は、その教義を心の底から信じているのです。信じているから決してあきらめません。金剛禅でいうならば、自分は可能性を秘めた種子を持っている。そしてそれを磨き続ければ必ず幸せになれると信じきって修行するわけです。上撓上屈です。どんな事があっても決してくじけない力、それが信仰の力なのです。その力があるから修行し続ける事ができるのです。自分を本当の意味で変えることができるのです。理念などという生易しいもので自分を変えることはできません。ややもするとくじけてしまう自分の弱い心に打ち勝つためには、ダーマを信じきる、つまり自分の可能性を信じきるしかありません。どんなに苦しい時でももう駄目だとあきらめてしまわないで厳しい自己確立の修行に励み続けるためには、絶対に挫けないダーマ信仰が必要なのです。だから、開祖は、宗門の行にこだわり続けられたのです。
 要するにこういうことです。私たちは金剛禅門信徒として、宇宙の根本実相であるダーマを信心帰依している。そして自分自身もダーマの分霊を身に受けた優れた人間であることを自覚する。ただし、人間の心にはダーマつまり魂という良い心ばかりではなく、本能をつかさどる魄という悪い心もあり、人が霊止としてその無限の可能性を引き出して徳ある人になるためには、魄を修めて魂を養うという修養がどうしても必要である。その修養方法として、主行である易筋行をはじめとした六つの行が示されており、それらを精進修行する事で自己確立と自他共楽を図ろうとしているのだと。そしてまた行を修める日々の中から信仰心をより深めていくのです。易筋行を通じてできなかったことができるようになる体験をし、そんな体験を積み重ねていく中から自信を培い信仰心をより確かなものにしていくのです。少林寺拳法はそのための手段なのです。だから、少林寺拳法は宗門の行なのです。
 「作務《を行えば、それによって部屋が綺麗になります。でも、それを私たちは掃除とは言いませんよね。掃除という手段を使って心を磨いているわけです。自己確立の行を修行しているのです。
 つまり広い意味ではスポーツでもあり武道でもある少林寺拳法という技術を手段として、人が霊止であることを自覚し素晴らしい人間になろうと修行しているという点で、少林寺拳法は単なる武道やスポーツではない宗門の行として位置づけられているわけです。
 今週末に行われる合宿も、行として実施します。本来、行住坐臥全てが行なのです。呼吸をすることも単なるガス交換ではありません。調息法を行う事で行になるのです。少林寺拳法だけが宗門の行なのではなく、生活全てが宗門の行であるということを理解してください。また、そのことを今回の合宿で子供たちにも理解させようと考えています。指導者みんなが信仰心と信念を持っていなければ、決して子供たちには伝わりません。僧籍にある幹部の皆さん、よろしくお願いしますね。蛇足ですが、まだ僧籍に入っていない拳士の皆さんは、資格ができたら必ず僧階を取得するようにしてくださいね。なぜなら今までお話したように、僧籍にあって深い信仰心を持っていなければ、少林寺拳法を宗門の行として正しく後輩に指導する事ができないと思うからです。

7、 幸せになるために

 金剛禅宗門では、社会にあって修行しながら社会を理想境に改造しようという目的があるので、在家主義を採っています。実は出家するよりも在家の方が厳しい修行であるともいえるのですよ。出家していれば否が応でも清らかな生活を送らざるを得ませんが、在家である以上世の中の汚さにどっぷりと浸かる事になります。そんな状況の中で、生活も仕事も、飲んでいるときも寝ているときも、息をするだけでも、行住坐臥全てが行だととらえて修行し続けなければならないのですから。
 生活全てを宗門の行ととらえる金剛禅では、最も修行の効果の高い易筋行が主行である定められています。開祖の定められたこの易筋行をはじめとした様々な行を在家の日常生活の中で修めることこそが、私たちが平和で豊かな理想の社会を実現するために真っ先に精進努力すべき事であり、幸せになるための近道なのです。心してみんなで修行に励みましょう。またその上で、同志を増やしていきましょう。

以上

 なお、このWEBサイトは、当道院平泉雅章拳士の企画製作により運営されています。この場を借りて感謝を申し述べます。

(宗)金剛禅総本山少林寺大館三ノ丸道院

道院長   小 林 佳 久

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