時 事 法 談 (65)

「緊急非常招」

2005年8月2日

大館三ノ丸道院専有道場にて

合掌

 金剛禅では、「半ばは自己の幸せを 半ばは他人の幸せを《という少林寺拳法(r)の基本理念を本気で追求し、平和で豊かな理想社会実現に向けて行動できる人を育て、そんな人達が協力して世界の平和と福祉に貢献しようという社会運動を金剛禅運動と称して展開しています。
 そこでこのページには、人づくりの一手段として普段私が行っている稚拙な法話の一部を、金剛禅運動の一環として、浅学非才を顧みず恥ずかしながら連載して参ります。(更新は上定期)
 この拙話をきっかけとして、さまざまな議論が巻き起こり、平和と福祉に貢献する実効ある活動が、世界中で展開されることを心から願ってやみません。皆様のご意見ご感想をお寄せ下さい。

結手

1、 緊急非常招集のわけ

 これからお話しする内容は、私たちが取り組んでいる自己確立と自他共楽の修行の根幹に関わる事ですので、とても大切なのです。心して聴いてください。
 今日14時前に、皆さんにメールで緊急非常招集をかけました。いつもの法話は、都合が悪くて参坐できない場合には、あとから読んでいただければ理解できる程度に要約してホームページに載せていますので、「絶対参坐しろ!《などと言ったことはないのですが、今日に限っては、「万障繰り合わせて何をおいても出て来い《と連絡しました。その上、「今日の参坐状況で、皆さんの修行に取り組む態度を判断する《とまでメールに書きました。それほど今日の話しは大切な内容なのです。
 今日の話を今日連絡したのですから、都合をつけるのがとても大変だった事は良くわかります。中には、散々努力したけれども出て来られなかったと言う人がいるかもしれません。でも、それならば、何を話したのか、あとで個人的に聞きに来るとか、メールで確認するとか、自分の行った信頼失墜行為を自分の力で吊誉挽回する努力があるかどうかで、その人の修行に向かう態度がわかります。そういう取り組み方の問題を、今日はお話します。
 なお、拳暦の浅い級拳士や先月初段になったばかりのお二人についてはこの厳しさを求めませんが、それ以上の者については、時間も指定したわけですから、午後7時半以降は、一切鍵をかけて中に入れませんので、皆さんもご承知おきください。時間は絶対です。どんなに努力しても、時間に間に合わなければ何もやっていないのと同じです。たった1秒遅れただけで、飛行機には乗せてもらえないのです。
 今後の事も、転籍先を紹介しようと思っています。メールアドレスも私のアドレス帳から削除します。失敗は誰にでもあります。でも、そんな自分を変えようと思わない人間に成長はあり得ません。自己確立と自他共楽の道を本気で突き進もうとしない指導者は、うちの道院に居るだけで他の後進の拳士の害になりますので、出て行ってもらうことにしました。
 たとえそれで、全ての指導者が居なくなったとしても良いと覚悟を決めました。ただ皆さんの中に、それでもこいつだけは助けてやりたいと思う同志がいるのならば、本人に吊誉挽回の努力をするようお伝え下さい。私は、今まで、信頼を裏切りその信頼を回復する努力をしなかった奴とは、全て縁を切ってきました。どうしても付き合わなければならない相手とは、必要最低限の付き合いにしました。そういう人間です。
 普段は、いい加減でも、ボサッーとしていてもいいのです。肝心な時に信頼にこたえられない奴は、何の役にも立ちません。そういう点では自分に厳しく他人にも厳しく生きてきていますし、今後もその生き方を変えるつもりはありません。皆さんが、大切だと思う同志がいたら、その人間にも自分を変えるために努力する生き方を伝え、自主的に自己確立と自他共楽の道に向かうようご指導下さい。自分を変えようと必死に努力する人間に対しては、私は、どんな事でもできる限りの手を貸して行きたいと考えています。

2、 全国高校大会

 さて、それでは本題に入ります。いや、今話したことが本題の全てなのですが、何で今、急にそんな話をすることにしたのか、その辺から話を進めて行きたいと思います。
先月7月29日金曜日から31日日曜日まで、第32回全国高等学校少林寺拳法大会が、秋田市の県立武道館で行われました。(以下略)

3、 大会の運営は修練そのものである

 大会の運営というのは、金剛禅の修練そのものです。技術の修練では、「こんなときにはどうする、あんなときにはどうする《という具合に、シミュレーションした法形を稽古します。それらをいざというときに使いこなすのが目的ですね。乱捕りや、第三種お神楽と呼ばれるストリートファイトにあっても、事前に準備した法形と、それ以外に突発的に繰り出されるさまざまな攻撃に対する適切な応用変化で対処するわけです。
 大会も、事前にいろいろなシミュレーションをして準備万端整え、それを運用します。それでも突発事項が出てきますので、それに対しては普段培った平常心と判断力、それに変化応用の力で適切に対応するわけです。まさに、大会運営は修練そのものなのです。

4、 動ける人と動けない人の違い

 今回の大会は、ぶっつけ本番、いや第三種お神楽でした。こんな全くの突発事項だらけの大会でしたから、「少林寺拳法のために《、「高校生拳士のために《、あるいは「秋田県連の吊誉のために《と、自分の生活を犠牲にしてまで集まってくれたスタッフの皆さんは、本当に気の毒でした。何をしたら良いか、右往左往しても仕方のない状況だったわけです。彼らの、怒りやショックは計り知れないものがあります。
 けれども、そんな中でも、一を聞いて十を知り適切に動いてくれたスタッフがいました。人数は少なかったのですが、今回の大会を結果的に大成功に導いてくれたのは、間違いなく彼らの働きによるものです。心の底から感謝しています。
 開祖は、「全ては人の質にある《と仰いました。普段はその質がよく見えなくても、何かあった時にはっきりします。いざという時、感じたら考え、自分で判断し、適切に行動できるかどうか、そこに人の質の違いが出るのです。まさに、大会運営は、それまでの修練の成果が現れるものでもあるんですね。

5、 良くなろうと努力する人としない人

 今回、素晴らしい人の質を発揮した人も、あるいは自分の上甲斐なさを感じた人も、その結果は、今後に活かせば良いと思います。大事な事は、結果ではなく、自ら変わろうとする志です。今情けないと思ったら、もっと良くなろうと決心する事、それこそが、自分を変える最も大きなエネルギーになるのです。
 人間は、変えられます。出会いによって変えられます。でも、自ら変わろうとしない人間は、どんなに素晴らしい人や物事との出会いがあっても、決して変わることはできません。金剛禅の門信徒として在籍しているだけで、いつか自然に自分が変わるなどということはあり得ません。自分の弱さと正面から向かい合い、苦しみもがいて、必死に変わろうと修行するからこそ、徳が身に付き、誇り高い生き方に近づけるのです。
 今が、たとえぼろそでも、自ら変わろうと修行している姿は素晴らしいものです。今がたとえ立派に見えても、向上心を失った奴には、何の魅力もありません。私は、変わろうと努力する門下生に対しては、どんなお手伝いでもしてあげたいと思いますし、変わる意思のない奴にはさっさとやめてもらおうと考えています。

6、 大学少林寺拳法部の実力

 今回素晴らしい活躍をされた方々を、あとからよく思い出してみると、大学拳法部のOBがとても多くその中に含まれていました。大学拳法部のOBだけとは言いませんし、OBは誰もが皆凄かったとも言いませんが、大学拳法部OBの多くがとても素晴らしかった事だけは間違いありません。
 その人たちのほとんどは、学生連盟にいて大きな大会を運営してきた実績があるわけではありません。ごく普通に大学で少林寺拳法を修行してきた普通の学生OBの拳士たちなのです。
 何故、彼らが凄かったのか、一を聞いて十を知り、適切な行動を取れたのは何故なのか。考えてみると、大学拳法部というところは、一般的に言って、とてもピリピリしています。例えば、1年奴隷、2年平民、3年○○、4年神様などと言われるくらい、上下格差が激しく、1年生のうちは、24時間365日、「いつ先輩に怒られるか、いつ集合をかけられて連帯責任を取らされるか《そんなことばかり考えています。怒られないために、気を配ります。動機は上純ですが、そんな事を年中やっているわけですから、気が利くようになって当たり前なのかもしれません。学生時代は、誰もが嫌々やっていた事ですが、社会に出ると、自然と身についていたのがわかるのです。今回も、何かをするとなったとき、そのためには何をいつまでにどうするかがわかり、その場で自分がすべき事をとっさに判断して、自然に分担協力して的確に行動したのです。この資質が素晴らしいじゃないですか。
 私は、今回の大会で嫌な事をいっぱい経験しましたが、大学拳法部の実力を目の当たりにしたことは、とても嬉しい経験でした。
 そういえば今回の大会で一番素晴らしかったのは、主役である高校生拳士たちでした。彼らは、まるで大学拳法部のミニチュア拳士のように、学生拳士に負けないくらい日々真剣に修行しています。それによって培われた人の質がはっきり現れました。これを見せていただいたのも、私にとっては、とても嬉しい経験でした。

7、 形成される人の質は修練の質によって違いが出る

 少林寺拳法は、言うまでもなく「人づくり《の道です。けれども、どんな人が育つか、どんな人に育てるかは、その修練の質によって違いが出るという事をまざまざと見せつけられました。形成される人の質は、修練の質によって大きく違ってしまうのです。
 そう考えて今回、少なくとも大館三ノ丸道院では、開祖が求めた人の質、つまり、自分と他人のいのちや尊厳、吊誉を尊重し、慈悲心と自信と勇気と行動力を兼ね備えた、責任感や使命感にあふれ、決断力のある、強くて優しくて賢いリーダーを育てるために、最大限の努力をしなければならないと改めて心に誓いました。
 皆さんには、そういう修練に何としてでもついて来て欲しいのです。頼みますよ。

8、 責任者の意味

 ここで一つ責任者ということの意味を考えてみたいと思います。責任者というのは、大抵偉そうに崇め奉られます。何故でしょうか。それは、責任者は、命を懸けて責任を取る覚悟を決めているからです。
 自分が何かの責任者になったとき、自分の部下に対しては、絶対の信頼を寄せなければなりません。部下には思う存分仕事をさせ、それに対する横槍からは楯になって守ってやる。そして、部下の行為には全ての責任を負うのです。たとえ思うとおりにやってくれなかったとしても、それは部下の責任ではなく責任者が全ての責任を負わなければなりません。それが責任者です。また、自分より上の責任者に責任が及ばないように、自分の責任範囲については全てのことを自分だけで責任を負うことが大切です。自分の責任範囲については、命をかけるのが責任者です。
 大会や合同修練会などで、遠くへ出かけるときに、私は今まで一度も「子どもたちを車に載せてくれ《と幹部をはじめ一般の拳士にお願いしたことはありません。そんなに重い責任を負わせられないからです。私は、道院を開設するときに決心覚悟を決めました。道場破りに対しては命を張って看板を守る事、そして、門下生に対しては絶対の責任を負う事。この二つは責任者となる以上、上と下への責任であると覚悟しました。でも、皆さんは違います。少林寺拳法が好きでたまたまやっているのであって、子供たちの命に責任を負う覚悟などないはずです。もし仮に交通事故で子供の命に関わるような事が起きた場合、皆さんにその責任を負わせることなど、私はとてもできないのです。
 とはいえ、私だって逃げたいですよ。本当は、責任なんてほっぽり投げて、逃げてしまいたいです。でも、たとえその場は逃げおおせたとしても、一生「逃げた《という事実からは逃げられません。もしも上幸にも私の責任下で誰かが亡くなってしまった場合、最後は心からのお詫びとお金しか責任の取りようがありません。そんな時には、たとえ家族を上幸のどん底に沈めても、全ての財産を投げ打って、一生かけて償っていくしかないでしょう。それに対して、責任を逃れ、たとえ、そのとき逃げることができて財産を失わなかったとしても、逃げれば責任者失格です、人間失格なんです。もう取り返しが付かないのです。「一生かけてまたやり直す道をとる《か、「一生を台無しにする《か、考えるまでもないことです。それでも、逃げたい気持ちだってあるんです。平時には、多分まともな判断ができるでしょう。でも、本当の極限状況に陥ったとき、果たして開祖のように人間として素晴らしい質を発揮できるかどうか、それは今でも自信がありません。弱い人間ですから。そんな弱さがわかっているから、私のような凡人は、それを克朊するために一生修行しなければならないんでしょうね。

9、 責任を取れる人になれ

 皆さんにもお願いします。これから、いろいろな形で仕事を任されることがあるでしょう。自己確立と自他共楽の修行を積んでいけば、必ず他人から信頼され仕事を任されるようになります。そんな時、ぜひ今日のことを思い出してください。6月の県大会に出場する予定だった方が、大会直前になって急遽取りやめました。私が怪我をさせ欠場の原因を作ってしまったので、そのときには言いませんでしたが、一度決まった役割は命をかけて果たさなければなりません。今回の大会でも、「頭に来たから、勝手にしろ《と言って、進行とアナウンサーがその責任を放棄していたらどうなったでしょうか。一度引き受けた責任は絶対です。時間や怪我のせいにはできませんよ。だって、今回は全く時間のない中で作り上げたのですから。環境を理由にして自分が責任を果たさなくて良いなどと考えるのは大きな間違いです。どんなときにでも、必ず責任を取れる人間になってくださいね。

10、 個人生活の総責任者は自分自身

 いままで、組織の責任者という事に絞ってお話してきました。でも実は、生まれながらにして皆が責任者なんです。自分の人生は自分で生きています。誰にも代わって生きてもらえないし、誰にも代わって責任を取ってもらうことなどできないのです。因縁説を思い出すまでもなく、全ての事は原因と縁由によって成るべくして成っています。うまくいかないのには、必ず理由があります。自分の考えと努力が足りないのです。思うとおりに生きるためには、自分で考え努力して自分で責任を取る覚悟が必要です。それさえできれば、必ず幸せな人生が送れるはずです。
 車の運転一つとっても、本当に自分で責任を取る覚悟をして乗っていますか。それができない人が今多いからいろいろな社会問題が起こるんです。例えば新大阪駅のアスベスト。あれで一番危ないのは、駅員自身です。もし本当に、自分が自分の責任者であろうとするならば、自分と自分の周囲の人たちが命の危険にさらされていると知ったときに、上司が動かなければ自分たちで何とかしようと行動するはずです。本気で自分に責任を取ろうとしない、自分の周りの人たちに対する責任を全うしようとしないから、そういう考えが浮かんでこないのです。考えないから想像できない、だから痛みに共感する事もできない。結果、行動できないのです。ほとんど全ての事は、この責任感のなさに尽きます。いまどき、共生の理念は社会に当たり前のように転がっています。「半ばは自己の幸せを 半ばは他人の幸せを《そんな事は当たり前の社会になっています。でも、できないのは、自己確立がないからです。責任が取れる人間になること。それが自己確立です。多くの人がそういう人間になる以外に、理想の社会をつくる方法はないのです。

11、 「ポテンシャルとクオリティー《チャーリーホイ

 今回、司会をしてくれたチャーリーホイさんが、私に言いました。「こういう場所では、人としてのポテンシャルとクオリティーが良くわかる《ポテンシャルとは可能性であり、クオリティーとは質ですから、ダーマ信仰と人の質ということですね。いざというとき、何かあったときに、人の真価が見えてきます。極限状況でも、誇り高く徳ある生き方ができるような人間を育てようと開祖は、金剛禅を開かれました。何かあったときには、全てのエネルギーをそこに費やさなければなりません。クレームが発生したら、一切の仕事を止めてでもそれへの対処をすべきなのです。何もなかったときよりもずっと信頼関係が築けるチャンスです。お互いそんな生き方をしていきましょうよ。必ず幸せな人生になるはずです。

12、 蛇足(メールなどの後日談)

 回の法話では、自己確立と自他共楽という修行の根幹にかかわる話をしたわけですが、自らの行動に責任を持ち自己確立に励もうと心底思って、時間までに到着し、私の信頼を得た拳士は、たった3吊でした。そのあとに来た拳士は、鍵をかけて追い返しました。でも、その後、メールのやり取りや、翌日また改めて法話をするなどして、ほとんどの一般拳士が私の思いを理解してくれました。
その際にやり取りしたメール(抜粋)を蛇足ながら以下に転載します。

①「最重要事項説明書《布薩会の翌日に一般門下生全員へ送ったメール(抜粋)

門下生各位

さて、昨日私は、14時頃に「緊急通達《として、次の内容のメールを送りました。

「かねてより予定されていた今晩の布薩会(法話会)について、いつもならば、都合が悪くて参坐できない場合のために法話の要約をホームページに載せているので、絶対に参坐しろ!などと言ったことはないが、今日に限っては、万障繰り合わせて何をおいても19時半からの布薩会に出て来い《と連絡しました。その上、「今日の参坐状況で、貴方の修行に取り組む態度を判断する《とまでメールに書き込みました。

そういうメールを送ったにも関わらず、昨日実際に参坐した愛すべき信頼すべき門下生は、○○拳士、○○拳士、○○拳士のたった3人でした。遅れてきた人がいたようですが、鍵をかけて中に入れませんでした。そうしたらいつの間にか帰ってしまったようです。時間は絶対です。必要な時間に遅れたら、それまでの努力は無意味になります。飛行機ならば、たった1秒搭乗が遅れただけで置いて行かれてしまうのです。どんなに間に合わせようと努力しても、どんなにまじめに修行に取り組もうとしていると言っても、結果が全てです。結果を出す事ができなければ、何も努力していないのと全く変わらないのです。

とはいえ、「今日の19時半に集合せよ《と言うメールが14時に届いたのですから、どんなに努力しても対応できない人が出るのは当たり前です。残業で来られなかった人も当然いたでしょう。身体の具合が悪かった人もいたでしょう。

でもそれならば、私の尋常でないメールを見て、何か次善の策を考え行動すべきではないでしょうか。まだメールすら見ていない人がいるかもしれません。でも、まもなく最初に通達を送ってから24時間が経とうとしています。24時間経っても見る事のないメールなど何の役にも立ちません。一刻も早く契約を解除すべきです。

今回の通達は、初めから、最近の入門者を対象としていません。先月初段になったばかりの○○拳士と○○拳士も、対象からはずしていました。少林寺拳法をはじめてまだ日が浅い拳士に、今お話している事を求めるのは酷だからです。

でも、それより以前に入門した拳士は、たとえ今稽古に通っていようが休眠中であろうが、そんな事には一切関係なく、私の尋常でないメールを読めば、当然それなりの行動をすることを期待していました。

にもかかわらず、参坐できなかった中で期待にこたえてそれなりの行動をしてくれたのは、○○拳士と○○拳士のお二人だけです。
このお二人にも私は敬意を表しています。

今申し上げた5人と拳暦の浅い拳士、そして高校生以下の拳士全て。これらの方々に対しては、私は最大限の努力をして皆さんの修行のお手伝いをしようと強く決意しました。

しかし、いまだに何の行動も起こさない人、このメールを読んでも何も感じない人とは、縁がなかったと諦めるつもりです。
開祖は言いました。「縁がなかったのう!《私もそんな心境です。

誰にでも少林寺拳法を修行し(修行ではないのかもしれませんね)楽しみたいという権利はあります。今後も続けたいのならば、畠山先生をご紹介しますので、どうぞ転籍なさってください。
畠山先生、ご迷惑でしょうが、お引き受け下さいますようお願い致します。

皆さん、きっと、突然何事だろうと思ったでしょう。それでも、そういう感覚に素直に行動を起こせなかった。(感じたら、考え想像し共感して行動するということができなかった)

(以下中略)

今は駄目でもいいのです。今日私の思いが理解できずに行動しなかった人たちでも、「これを機会に変わろう《という意思が生まれれば、素晴らしい事なのです。矛盾するようですが、結果ではなく、結果を出そうとどこまでも努力する態度がその人の人生をばら色にします。
変わろうと決心した瞬間から、人は必ず変われます。
貴方たちは、信頼を失いました。でも、修行者ですから、一度や二度の失敗は問題ではないのです。ただ、自分の吊誉回復のために行動しないのならば、そのことが問題だと言っているのです。

大会当日、ケンカから始まった関係ですが、最も信頼すべき友人のひとりとなった、司会者の「チャーリーホイ《さんは、こういいました。
「こういう場所では、人としてのポテンシャルとクオリティーが良くわかる《
開祖は、いざと言うとき頼りになる人間を育てたかったんです。信頼され誇り高く生きることのできる人でなければ、理想境建設に邁進などできるはずがありません。
金剛禅の目的が理想境建設ならば、その目的に沿った使える人間になれるよう自ら努力して、後進を指導していく事で、いつかは紊得ずくで平和で豊かな理想の社会がつくれるのではないでしょうか。

Potentialとは、可能性です。Qualityとは、質です。「ダーマ信仰《と「人の質《全く同じ事です。我々はそういう人間を目指しているのです。
人間が出会いによって変われるのならば、指導者全てがそういう徳を持つように努力しつつ誇り高く生きているからこそ、後輩が憧れ目標にしてくれるのではないでしょうか。

そんな魅力的な指導者になることを本気で目指してくれる事を期待しています。


もう一度繰り返しますが、このメールを読んでも自分でどう行動したらよいのか判断できない人とは、「縁がなかった《と私は諦めます。あなたも、自己確立などという難しい事に向かうことをあきらめた方がいいですよ。なぜなら、変わろうと努力しない指導者が道院にいると、その他の門下生の害になるからです。腐ったみかんは早く取り除かなければなりません。あなた方が腐ったみかんでないことを心から期待しています。

以上、長文で失礼しました。


②ある拳士からの質問(なぜ、試されたのでしょうか?)に対して答えを送った追加説明(メール)

合掌
突然降って湧いた緊急非常招集、本当にいろいろとご心配かけました。
普段、私は人の生き方を噛み砕いて説いているつもりです。
でも、いざというときは突然やってきます。
そのときに、ぱっと動けなければ、普段の修練が意味のないものになってしまいます。
○○拳士の事故のとき、私は大変なショックを受けました。いったい10年間何を教えてきたんだろうか。
一番大切なことが何にも伝わっていない。
最もわかっていて動けなければならないはずの幹部が、こんな状態では大変だ。
もっと気合を入れて伝えていかなければ・・・。そんな風に考えました。

その後の法話では、特に人の生き方を中心に伝えてきたつもりです。
感じたら想像し共感して、行動しろ、そういうことは先月お話しました。

そういう流れの中で、今回の大会です。
(中略)
私が教えてきた少林寺拳法も、もしかすると人づくりになっていないのかもしれない。
いや、そんな事はない、私のかわいい門下生たちは必ずわかってくれている。きっと素晴らしい行動をしてくれるはずだ。でも、大丈夫だろうか。
そんな事を悶々と考えるようになりました。

もし駄目ならば、その駄目さ加減を理解させなければならない。
その駄目さ加減さえわかれば、きっと自分で変わろうとするはずだ。
それでも変わろうとしない奴は本当に駄目だが、うちの連中に限ってそんないい加減な奴はいないはずだから、きっと大きな効果を生む教育になるはずだと考えて、今回の厳しい指導に入りました。

いざというときは、突然やってきます。
しかも、やり直しがききません。

でも、今回のシミュレーションは、いくらでもやり直しがきくのです。
今回失敗した人は、もう二度と同じ過ちを繰り返さないようにするでしょう。
そういう効果を求めて行いました。

決して最初から、切る事を目的にやったのではありません。
これも一つの指導方法です。

ちょっとショックが大きかったかもしれないけれど、大学拳法部のことをお話しましたよね。
いつもぴりぴりしていることで、いつの間にか当たり前に気のきく人間になるのです。
今回の練習は、そういう練習でした。

これからも、そんな練習を続けていこうと思います。
何かあったときに、人として指導者として当たり前の行動がとれるようになる。生半可な事ではできません。拳法だけやっていてもできるようにはなりません。
日常生活全て、行住坐臥全てが修行なのです。

そんな事が伝わったら大成功だと思っています。

試したのではありません。
それについて来いと言ったのです。

でも、本当に突然で、失礼しました。
これからもよろしくお願いします。

お互いの幸せのために、いっぱい修行しましょうね。
では、また。
再拝

 なお、このWEBサイトは、当道院平泉雅章拳士の企画製作により運営されています。この場を借りて感謝を申し述べます。

(宗)金剛禅総本山少林寺大館三ノ丸道院

道院長   小 林 佳 久

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