時 事 法 談 (64)

「想像・共感・行動について」

2005年7月5日

大館三ノ丸道院専有道場にて

合掌

 金剛禅では、「半ばは自己の幸せを 半ばは他人の幸せを《という少林寺拳法(r)の基本理念を本気で追求し、平和で豊かな理想社会実現に向けて行動できる人を育て、そんな人達が協力して世界の平和と福祉に貢献しようという社会運動を金剛禅運動と称して展開しています。
 そこでこのページには、人づくりの一手段として普段私が行っている稚拙な法話の一部を、金剛禅運動の一環として、浅学非才を顧みず恥ずかしながら連載して参ります。(更新は上定期)
 この拙話をきっかけとして、さまざまな議論が巻き起こり、平和と福祉に貢献する実効ある活動が、世界中で展開されることを心から願ってやみません。皆様のご意見ご感想をお寄せ下さい。

結手

さて、今回は「想像・共感・行動について《お話します。

1、 県大会の反省

 先日の秋田県大会、お疲れ様でした。今回は一般拳士が出場できませんでしたが、その分引率や裏方としてご尽力頂きましたね。ありがとうございました。大会は、出場者だけの学びの場ではありません。大会を作り支え出場する全ての人が、教えや技術を実践する演習の場です。今月の終わりには全国高校大会も開催されますが、自分自身の修行の場ととらえて積極的なご協力を期待しています。
 県大会に出場した少年拳士たちは、一生懸命修行に励んで、とりあえず「できるレベル《にまで、ほぼ全員が達する事ができたと思っています。今後は、「上手くできる《というところにまで高めていかなければなりません。課題は、「平常心《と「武を演ずる意識《です。ご自分の修練と共に少年部の指導もよろしくお願いします。

2、 技術修練から学ぶべき大切な事の一つ

さて、演武の稽古に限ったことではなく、普段少林寺拳法の技術を修練していく中から学ぶべき事は山ほどありますが、今日は、「想像力《と「共感する力《そして「行動力《についてお話したいと思います。
先日、稽古の最中に一部の人にはお話しましたが、たとえば龍王拳の誘いは、相手が思わず握りたくなるようなものでなければなりません。ある高級ホテルの新人研修では、フロントでボールペンをお客様に渡すという動作を演習するそうです。お客様がそのペンを手に取ったとき、一度も持ち直すことなく自然に文字を書けるようにお渡しするのがその極意です。実はこういう演習を私たちは毎日少林寺拳法の技術を通して稽古しているわけです。ただ単に強くなるとか上手くなる、それだけを目的にするのではもったいないほど少林寺拳法には宝が散りばめられています。攻者が握りやすい、あるいは攻撃しやすいような誘いを仕掛けるためには、「想像力《が大切です。自分が攻者ならばどうか、握りたくなるか、あるいはそこを蹴りたくなるか、そんなことが想像できるから、正しい誘いが生まれます。攻守を交代して行う演習の中から、想像力が養われていきます。一度も攻撃した事がなければ、どうやって誘ったらよいかも分からないですからね。実際に想像しながら試してみて、攻者の感想を聞きながら、想像と現実のギャップを埋めていく作業をする事で、上手くなっていくのです。また技を掛けていても、あともう少しというところでやめてしまう人がいますが、自分の想像と実際の掛けられている人の感覚に差があるから自分勝手にだめだと判断してしまうわけですね。相手の意見に耳を傾けて、想像通りにかけられるようにしていくことが大切です。一度やりかけたら最後まで諦めずに努力しましょう。
少林寺拳法の技術は、とても痛かったり気絶させられたりといった強烈なものですが、正しく掛けられると怪我をしないものです。逆技の痛みは、掛けられているときにはとんでもない激痛ですが、放されたあとは、何も余韻が残りません。当身も簡単に気絶はしますが、殴られた痛みは感じませんし、歯が折れたり出血したり腫れたりということはありません。でも、失敗するとそういう痛い思いをさせてしまうことになりますよね。そんな時に「痛かったね。ごめん。《と心から言えるか。あるいは、相手が技の習得に苦労しているときに、「掛からなくて悔しいね。残念だね。《と本気で思えるか。それが共感です。相手の心と触れ合わなければ友情は育ちません。助言をするのでも、相手に共感してそれを言葉や態度に表した上で「こうしたらいいよ《と言うのと、「そんなやり方じゃ痛いじゃないか。バカヤロウ。《などと思いながら、「こうしろよ《というのでは、全く受け取り方が違ってきます。そういう殺伐とした相対演練では白衣殿の壁画の雰囲気を醸し出すことはできませんよね。
行動とは、相手の思いにいかに応えていくかということです。身勝手な行動では、結果が出ません。正しく想像し共感できたら、おのずと行動の方向が見えてくるはずです。そこへスッと身体を動かす訓練が、技術修練の肝心なところなのです。思っていても行動が伴わなければ思っていないのと同じです。思ったとおりに身体を動かすには勇気と数をかけることが必要です。そんな事も日々の修練で学ばなければなりません。

3、 最近の少年事件

ところで、最近やたらと少年事件が多発しています。加害者は、まじめな良い子だったというのが相場のようです。以前校長先生だった方が私にこんな話をしてくれました。「私が教鞭をとっていた頃は、まじめにこちらを向いている子はよく話を聞いていて、余所見をしている子は聞いていなかったけれども、最近の子どもは、まじめそうな態度の子に限ってろくに話を聞いていないし、おしゃべりなどをして心ここにあらずと思える子が案外しっかりと話を聞いていたりする。《実際道場で見ていてもそうですよね。子どもたちの態度などに表れる表面的な部分だけではわからなくなっています。
現代が、そういう状況であるという一面はあっても、問題を起こす子とそうでない子との大きな違いは、昔も今も「想像力《と「共感する力《と「行動力《のあるなしだと私は考えています。物事を受けたとき他人にはどういう影響があるのか、自分にはどのように降りかかってくるのか。それはどのように感じられるか。それらが分からなければ、人を心ならず傷つけたり、勝手な被害妄想に悩まされたりするでしょう。そして、自分のためにまた他人のために最良の方法を模索し行動するということができなければ、やはり大きな問題を起こしかねません。
先日、うちの子供が友達のお母さんに車で送られて家に帰ってきました。その子の家で遊んでいたようで、わざわざお母さんが連れてきてくれたのです。仕事をしながらその様子を見ていたら、子供同士は、「じゃあまたね《などと挨拶をしていたのですが、お母さんに対しては「ありがとうございました《と言わなかったのです。ショックでしたね。仕事が終わってから、こっぴどく子どもを叱りましたが、お母さんがどういう状況の中どういう気持ちで送ってきてくれたか、その場でうちの子は全く想像しなかったわけです。その時の彼の心の中に友達のお母さんは存在していませんでした。自動的に送られ、自動で友達が帰っていく、まるでエレベーターに一緒に乗って自分が先に降りたような、そんな風に見えました。周囲に気を配り、想像し共感してこそ、人間社会を生きていけます。お店に黙って入って、黙ってレジに並び黙ってお金を差し出して黙って商品を受け取り、黙って帰ってくる。そんな異様な社会に日本はなってしまっています。人間同士が、もっと想像力を働かせ互いに共感しあい、適切な行動をとる社会にしていくことが、犯罪を減らすことにもつながる理想境建設の第一歩なのだと思います。

4、 花岡事件と戦争体験

先日6月30日に、花岡事件60周年追悼式が大館市の主催で執り行われました。花岡事件については、さまざまな書籍も出版されていますので、是非研究してもらいたいと思います。1944年に鉱山の町であったここ大館の旧花岡川が陥没し七ツ館坑が崩壊して22人が亡くなる大惨事が発生しました。そこで水路変更工事を鹿島組に発注したわけですが、鹿島組は中国から強制連行してきた人たちを使って工事を請け負いました。ところが、その生活や労働があまりに過酷であり、飢餓、酷使、虐待の中で、中国人労働者たちの多くが亡くなっていきました。あまりの惨状に耐えかねて、1945年6月30日に850人ほどの中国人が一斉蜂起して、虐待した日本人や裏切り者の中国人を殺して山に逃げたのです。その後行方上明になった3人を除いて全員が捕らえられ、3日間真夏の炎天下、飲まず食わずの状態で鎖につながれ地べたに座らせられたのです。首謀者たちは拷問され、大変多くの人命が失われました。
この事件からは、いろいろな事を学び取らなければなりませんが、自虐史的に見る人たちからは一歩離れて、金剛禅の人間尊重の教えに照らし合わせ、じっくりと学んで欲しいと思います。
この事件では、自分さえ良ければいいと考えた人たちが中国人の尊厳を踏み躙ったわけですが、戦時中の日本人、特に特権を与えられた人たちの中には、そういう考えに陥った人が数多くいたようです。開祖が軍隊で体験した、「貴様らは、一銭五厘の消耗品だからいくら死んでも構わんが、馬は二百円もするんだから大事にしろ、このバカヤロウ《という話や、「貴様らの補充は一銭五厘でいくらでもつくが、この飛行機は三万円もするのだぞ。たとえお前らは死んでも飛行機に傷をつけるな《と言った話にも通じるものがあると思いますが、特権を持った日本人の中には、自分よりも低いと見るや、人間として扱わない風潮があったようです。先日「朝まで生テレビ《を見ていたら、ガダルカナルから最後の撤退をさせるために救助船に乗っていた元帝国軍人が話していたのですが、「やっとの思いで助けた彼らは、体調を回復すると直ぐにアッツ島に出陣させられたそうです。《と嘆いて、「兵隊を大事にしない国だから、負けるのが当然だったんだ。《と言っていました。さっきお話した元校長先生の話では、ノモンハンで戦って九死に一生を得た兵士が、8月15日後の戦闘で、ロシアとの激戦を命じられていたそうです。「関東軍や大本営は、兵士の命よりも、ノモンハンで何があったかを隠す事の方が大切だった《とその先生は話してくれました。要するに口封じです。
こういう話は上げればきりがないほど出てきますが、要するにどれもこれも、想像力に欠け、共感することを放棄した人たちで、その結果として当然のことながら間違った行動をとってしまったわけです。

5、 天皇のサイパン訪問

 先日、天皇皇后両陛下がサイパンを訪問し、民族の枠を超えて慰霊されましたね。想像力を働かせ、その人たちに共感する事によって、そういう行動がなされたのだと思います。エンペラーとして最高のあり方ではないでしょうか。私は天皇に対して特別な思いを持ってはいませんが、今回の訪問には涙が出ました。
 国際政治は、国益や一部の者たちの利益だけを追求して、自分たち以外には全く想像力を働かせず、共感せずに、まるで人間ではないかのように振舞っています。アメリカがアフリカ支援を始めましたね。純粋な人道支援でしょうか。アフリカの石油利権を狙ってのものであることは明らかです。ヨーロッパも同じ事です。今まで日本はアフリカとの利害関係が薄いからアフリカに対する支援をあまりしてきませんでしたが、今後はだんだん増えてくると思います。中東の石油にばかり依存していては非常に危険です。そういう国益が絡むからです。政治とはそういうものです。天皇は、そんな下世話な政治家たちとは全く違った、人間としてごく自然な思いを素直に行動として表せる素晴らしい立場にあると感じました。国益を超えた「自他共楽《がどれほど素晴らしいか、これからも世界に魅せ続けて欲しいと願わずにはいられません。

6、 無始よりこのかた煩悩にまつわれて造りたるもろもろの罪とが

 私たちは、礼拝詞で、「我等無始よりこのかた、煩悩にまつわれて造りたる、もろもろの罪とがを、悉くざんげし奉る。《と唱和しています。無始とは、始まりがないくらい昔の事です。つまり自分が生まれるよりもずっと前。人類史上全ての罪を、一切この身に引き受けて懺悔するといっているのです。ダーマの分霊を得て生まれてきた優れた人間であるはずなのに犯してしまった過去の全ての悪事を、一切合財ひっくるめて同じ人間として反省するという心です。天皇の慰霊訪問と同じ感覚です。もっとも天皇の場合には、父親である昭和天皇の犯した罪という面も多分にありますが、そればかりでなく人類全体の汚点という心が大きく働いていたと思います。私たち金剛禅門信徒もそういう心を持とうと言っているのです。
 その上で、「我等この身今生より未来にいたるまで、深く三宝に帰依し、み教えに従い奉る。《つまりは、生きているたった今から未来永劫にいたるまで、信仰の道に生き、善行を積んで後世に遺していくと誓っているわけです。二度と戦争を起こさない。自分を大切にし、他人の幸せのために行動すると唱和しているわけですね。

7、 平和を守る真の勇者

信条では、「正義を愛し、人道を重んじ、礼儀を正し、平和を守る真の勇者たることを期す。《と唱えています。自己を確立し自他共楽の理想境建設に邁進するということですね。自分を大切にし、想像力を働かせ、他人と共感し、勇気を持って行動するということです。どんな時にも平常心を保ち、強くて優しくて賢い、ダーマの分霊を身に受けた霊止として、正しく行動するということを、少林寺拳法のではなく自分自身の信条としているわけです。
大きな事を言っているようですが、普段の社会生活に当てはめてみると、気が利く信頼できる奴になるということです。乱捕りでは、相手の動きを読む事が大切になってきますね。事前に気の動きを察知できれば、その後がものすごく楽になります。気が利かない奴は、軍鶏のケンカしかできないのです。行住坐臥全てが修行です。道衣を着ているときばかりでなく、普段から、想像力や共感する感性を高め、行動力を培っていきましょうね。その上で、平和を守る真の勇者として理想境建設に邁進しましょう。

以上

 なお、このWEBサイトは、当道院平泉雅章拳士の企画製作により運営されています。この場を借りて感謝を申し述べます。

(宗)金剛禅総本山少林寺大館三ノ丸道院

道院長   小 林 佳 久

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