時 事 法 談 (60)

「仕事について」

2005年3月1日

大館三ノ丸道院専有道場にて

合掌

 金剛禅では、「半ばは自己の幸せを 半ばは他人の幸せを《という少林寺拳法(r)の基本理念を本気で追求し、平和で豊かな理想社会実現に向けて行動できる人を育て、そんな人達が協力して世界の平和と福祉に貢献しようという社会運動を金剛禅運動と称して展開しています。
 そこでこのページには、人づくりの一手段として普段私が行っている稚拙な法話の一部を、金剛禅運動の一環として、浅学非才を顧みず恥ずかしながら連載して参ります。(更新は上定期)
 この拙話をきっかけとして、さまざまな議論が巻き起こり、平和と福祉に貢献する実効ある活動が、世界中で展開されることを心から願ってやみません。皆様のご意見ご感想をお寄せ下さい。

結手

さて、今回は「技法の修練について《お話します。

1、 2005年度の方針

 もうすぐ2004年度も終わります。来年度の予定を今組んでいるところですが、楽しく有意義な一年にするために、後ほど皆さんの意見を聞かせてくださいね。
 その予定を組む上での方針は、「強さと上手さの追求《としました。

2、 少林寺拳法の本質

 少林寺拳法は、人づくりのための行であると言われます。単なるスポーツとは異なり、勝ち負けを目的とはせず、「護身練胆《「精神修養」「健康増進」の三徳を兼ね備えた身心一如の金剛禅宗門の行、金剛禅宗の「主行《、主たる行なわけです。「己を修め、己に克ち、人を生かして己も生きる《という、「済世利民《の人を育てる道という意味での、真の武道そのものであり、心身ともに健全で頼りになる己をつくる「自己確立《と半ばは他人の幸せを考えて行動する己になる「自他共楽《を目指して行う、全人的な自己完成のための行なのです。開祖は、この「行《という文字について、強い人が弱い人を背負って向かい合っている形であると説明されて、我々が築こうとしている拝みあい援け合いによる理想境のあるべき姿を示されました。つまり、何のための自己完成か、それは世界の平和と福祉に貢献するためだ、という目的が最初から示されているわけで、「もう一度日本人をして世界の他の民族から信頼と尊敬を受けるに足る民族に育てる《ために、金剛禅と少林寺拳法が創始されたのですから、少林寺拳法は、単なる武道やスポーツとは本質的に異なる「宗門の行《であると言われるんですね。

3、 はじめに技術ありき

 開祖は少林寺拳法の本質を説明する中で、あえて、「万やむを得ず、武の用益として用いる場合においても、拳士は先に手を出す事を禁じられており、相手の攻撃を受けてから立ち上がることを原則として、守ることを訓えられている《と述べられています。もちろん、これは、敵に勝つための単なる武技として稽古することを厳しく戒められ、本質にもとづいた修行をしなさいと指導されたものではありますが、裏を返すと、万一破邪の拳として用いる場合に備えて守主攻従の技術を極め、いざというときには、後先必勝の機をとらえて、必ず正義正法を守れという教えでもあります。少林寺拳法の修行で身につけようとしている「自信と勇気と行動力《は、まずはいざというときには素手でも何とかなるという、生きる上での根源的な自信から生まれます。つまり、少林寺拳法の修行は、まず何をおいてもはじめに技術ありきなのです。主行である易筋行の修練をないがしろにしては、人づくりもへったくれもありません。開祖は、「少林寺拳法が、人間完成の行としての価値が絶大なのは、人と人とが拝み合い楽しみながら修行できる在り方と共に、終生をかけて修行してもつきることなく、極まることもない、広く深い道だからである《と述べておられますが、最も基本となる技術そのものを本気で追求すればこその話です。技法の追求なしにこの広くて深い道を歩く事はできませんし、修行そのものを楽しむ事もできません。先人が到達され磨きをかけられた歴史ある拳技を、開祖がその豊富な実戦経験とともに積み上げられ新たに編み出された独自のこの技法は、素晴らしく実戦的で強力な護身の技術です。もっともっと真剣に取り組んで、いざというときには正義正法を守れるようにしなければなりません。この素晴らしい技法を持つ少林寺拳法が、いつまでも誇りとして輝き続けるように、私たち拳士一人一人がこの技法を正しく身につけ受け継いでいかなければならないのです。正しい技法は、正しい教えや誇るべき組織と共に、その継承と発展のため、たゆまぬ努力をし続けなければなりません。

4、 基本・法形・乱捕り・演武

 では、いかにしたら正しい技術が身につくのでしょうか。少林寺拳法の修練体系は、基本、法形、乱捕り、演武で成り立っています。本来は、これらをバランスよく修練して技術の上達を図るべきものですが、最近そのバランスの崩れを感じています。以前は、基本を重視して徹底して行っていましたが、このところ原理原則を追いすぎて、基本をおろそかにしていたように思うのです。法形の中で、拳理をとらえることはとても大切ですが、基本的な動きができないと、少林寺拳法とはいえないものになってしまいます。私の指導が、あえて少林寺拳法らしさを除いて、原理部分だけを強調しすぎていたのではないかと反省しています。基本ができている人にならば、そういう指導でも問題なかったのでしょうが、結果的に基本的な動きができず、法形として完成しないという傾向が出てきてしまっています。上手さの追求は、そういう意味で、少林寺拳法らしい動きができるようになるところから、もう一度はじめたいと考えています。法形から基本に戻り、演武から法形と基本に戻り、乱捕りからも法形や基本に戻る事で、法形も乱捕りも演武も、芸術的なところにまで高めていきたいのです。単なる護身の技術で終わらない、行としての品位ある香りを醸し出すものにしていきましょう。
 その上で、強さの追求です。少林寺拳法らしい動きができるように努力しつつも、技が形だけにならないように実際にかかるようにしなければいけません。拳理を理解し、体感覚を掴んでいく修練を行っていきます。ビデオを利用したり、実験法を試みたり、ゆっくりとやってみる中から動きを掴んだり、妥協のないシビアな攻撃に対処したり、そういう修練を、基本でも、法形でも、乱捕りでも、演武でも、じっくりとやっていきたいと考えています。

5、 組手主体の意義

 これらの修練は、黙々と山奥にこもってただ一人厳しい修行に励むという姿からは程遠いものです。組手主体でお互いが、評価しあい導きあって、共に上達していくあり方です。試しあい、話し合い、認め合う、とても楽しい修練です。だからといって相手に遠慮するものでもありません。間違いはきっちりと指摘して、互いに向上するために精一杯努力するのです。ふれあい、痛みを分かち合って、自分が上手くなるために相手にも上手くなってもらい、相手が上手くなるために自分も上達するという本当の切磋琢磨から、感謝や尊敬も生まれ、心を込めた合掌礼にもつながるのだと思います。そんな魂の交流ある修練を目指したいと考えています。よろしくお付き合いくださいね。

6、 指導者の卵として

 一般拳士の皆さんは、みんな指導者の卵です。少年部の拳士に接するときには、金剛禅宗門の行を指導して欲しいのです。そのためには、普段から自分が楽しく行じていなければなりません。今述べた組手主体の修練を大いに楽しんで、技術の上達と人格の向上を図っていればこそ、正しく指導できるのです。少林寺拳法では、教えることが学ぶ事につながります。教えるとその技のポイントが整理できる上に、教えた人の所作から教えられる事が多いからです。また、教えるためには学ばなければなりません。教える事ができるだけの能力、技術の向上と人格の陶冶を図らなければ、すぐに追いつかれ追い越されてしまいます。教える事を自らの修行に結び付けていただきたいとおもいます。
 その上で、今の社会を見渡したとき、さまざまな問題が見えてきます。毎月お話していますが、たとえば子供を取り巻く環境一つとってもどんどん悪くなってきていますね。堪え性のある、賢くて強くて優しい、良い意味でのガキ大将を育てたいと思います。皆さんの力を貸してください。生意気なようですが、この大館を少しでも良い方向に向けて動かしていきましょう。

以上

 なお、このWEBサイトは、当道院平泉雅章拳士の企画製作により運営されています。この場を借りて感謝を申し述べます。

(宗)金剛禅総本山少林寺大館三ノ丸道院

道院長   小 林 佳 久

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