時 事 法 談 (59)

「いじめについて」

2005年2月1日

大館三ノ丸道院専有道場にて

合掌

 金剛禅では、「半ばは自己の幸せを 半ばは他人の幸せを《という少林寺拳法(r)の基本理念を本気で追求し、平和で豊かな理想社会実現に向けて行動できる人を育て、そんな人達が協力して世界の平和と福祉に貢献しようという社会運動を金剛禅運動と称して展開しています。
 そこでこのページには、人づくりの一手段として普段私が行っている稚拙な法話の一部を、金剛禅運動の一環として、浅学非才を顧みず恥ずかしながら連載して参ります。(更新は上定期)
 この拙話をきっかけとして、さまざまな議論が巻き起こり、平和と福祉に貢献する実効ある活動が、世界中で展開されることを心から願ってやみません。皆様のご意見ご感想をお寄せ下さい。

結手

さて、今回は「いじめについて《お話します。

1、 入門の動機

 最近新聞紙上では、毎日のように殺人事件が報道されています。非日常が日常化してきている恐ろしさを感じますね。それに対していじめの問題は、あまり世間を騒がせなくなっていますが、果たしていじめは減っているのでしょうか。いろいろな調査を見ると、いじめが減って校内暴力や器物搊壊が増えているといわれた時期があったり、逆に暴れまわる事が減っていじめが増えているといわれた時期があったり、波があるようです。でも、本当に考えなければいけないことは、数の問題ではなく、いじめはいつでも起こりうるという認識と、いかにして自分の生き方を確立するかということだと思います。
 入門の動機を聞くと、「いじめられたから《とか、「いじめてしまった自分を変えたいから《とか、あるいは「見てみぬふりをしない勇気を持ちたいから《などという答えが返ってくることがよくあります。つまり、自分の弱さをつくづく自覚したから、少林寺拳法を修行して強くなりたいと思ったのではないでしょうか。少林寺拳法の門を叩いて長い間修行を続け、自信と勇気と慈悲心、正義感や行動力を身に付けてきた人は数多くいますが、入門してはみたものの続けることのできなかった人や、もっといえば、強くなりたいと思いつつもなかなか修行の世界に飛び込むことのできない人も多くいるはずです。本当の強さは、うぬぼれでない自信であり、そこから生まれる勇気や行動力を持つことであり、自分で自分を頼りにできることであるといわれていますが、その強さを身につけるのは、なかなか大変なことですよね。自分を変えるということは、生半可な思いで成し遂げられるものではありません。皆さんは、大変な事を承知で修行されているわけですから、決して途中で諦めず挫折せずに、自らを鍛える修行に精進してもらいたいと思います。

2、 いじめる側の理屈

 ところで、どうしていじめが起こるのでしょうか。良い悪いはともかくとして、まずは、いじめる側の理屈を考えてみましょう。人はとかく他人を差別して自分の存在価値を高めようとするものです。自分が努力して他人よりもよくなろうとするよりも、人を貶める事によって相対的に自分が高くなる事のほうが楽ですからね。その上、感情のままに行動するほうが、感情を制御する事よりも簡単です。要するに魄に支配され本能のままに生きている人にとっては、他人を差別し支配する事になんの考えも入り込む余地はなく、反射的にいじめてしまうのだと思います。だから、少し気に入らない事があったり、鼻についたり、目だったり、あるいは妬んだり、何らかの感情的な引っ掛かりがあったときに、相手を慮ることなく、反射的、自動的に排除しようとするのではないでしょうか。昇級試験の宿題に、「私はいじめをした事があります。どうしてかはわからないけれど、いじめてしまいました。《と書いてくれた子がいました。アンケートなどでは、いじめの理由をいろいろ聞いていますが、実際のところ理由などその場では何もわからないのではないでしょうか。多少は考える事があったとしても、結果的に感情が理念に勝つわけです。反射的、自動的な感情の高ぶりがいじめのトリガーになっていると、私は思います。実際の行動は、直接的な暴力であったり、「はじく《などの心理的な力であったり、いろいろな力を使って、自分にとって気に入らない落ち着かない状況を安穏な状況に変えようとするわけですね。またそういういじめを続けていると、それを楽しむようになってしまうのかもしれません。他人の苦しむ姿に蜜の味を覚えてしまうのでしょうね。要するにいじめというのは、子供が、あるいは大人になれない人間がすることで、魄を修め魂を養うという修養ができていないわけです。そういえば、最近頻発する上審者も、いじめをする人間の心理に近いものがありますね。世の中大人になれない人間がどんどん増えています。

3、 なぜいじめられてしまうのか

 では、なぜいじめられてしまうのでしょうか。いじめとは、そもそも相対的に弱い人間が強い者から受ける暴力です。弱い者によって強い者が打ちのめされたとしても、それをいじめとは言いませんよね。要するにやられた人間がいじめられたと思ったときに、いじめがあったとなるわけです。被害者の思いだけで決まるものです。だから、加害者が「いじめていない《などと言い逃れようとしたり、学校などが「いじめは存在しない《などとコメントしたりするということは全くのナンセンスなんですね。いじめられる原因は、弱いから。ただそれだけです。考えてみれば、弱いものいじめは女々しい事だと言われるように、いじめる側も弱さの裏返しからの行動ですから、いじめに関係する者は、加害者も被害者も傍観者も、全てが修養のできていない弱い者という事になります。だからこそいじめは、加害者が被害者になり、また被害者が加害者になるという入れ替わりが起こり得るわけです。

4、 どんな理由があってもいじめは卑劣な行為

 いじめの標的に選ばれた人は、何らかの理由があるかもしれません。個性的で集団になじめない異質な存在であったり、弱々しかったり、場合によってはたまたまそこにいたというだけの理由かもしれませんが、いずれにしても何らかの理由があるわけです。社会のリーダーを目指している皆さんは、自分の性格を見つめて、自ら良くなるように努力する事は大切です。八方美人ではいけませんが、多くの人から疎んじられているようでは、リーダーにはなれませんからね。でも、だからと言って、いじめられて良い人間などいるはずがありませんよね。力で他人を支配するという事は、どんな理由をつけても決して許されるものではなく、人間の尊厳を踏みにじる憎むべき卑劣な行為であるということは、議論の余地もありません。人間だけに限った事ではありません。諸法実相であり、諸法空相です。全てのものは必要があって生かされているのであって、一つ一つの命は比べられるものではないのですから、生きとし生けるもの全ては、慈しみこそすれ、ないがしろにできるはずがありません。

5、 いじめの対処(拳士の場合とそうでない場合)

 さてそれでは、いじめにどう対処したらよいのでしょうか。これには二つの立場を考えなければいけません。一つは拳士の立場、もう一つは拳士ではないという立場です。
まずは、わたしたち拳士がいじめの当事者となってしまった場合です。先ほどもお話したとおり、いじめは、加害者も被害者も傍観者も弱い人間だからこそ起こりうるもので、本当の強さを身につけた拳士が、その渦中に入り込むということはないはずです。むしろ自らその輪に入り込んで、いじめをやめさせるのではないでしょうか。自信と勇気を持って、誇り高く生きていれば、誰もいじめることなどできないでしょうし、威厳をもって治安を保つこともできるでしょう。唯一妬まれるということはあるかもしれませんが、そんな場合でも、少林寺拳法の極意を人間関係に活かしてじっくり戦略を練り仲間と団結して行動すれば、必ず乗り越えられると思います。
 それではまだその強さを身につけていないということを前提に考えてみましょう。あるいはまた自分の子供のことを考えてみてもいいでしょう。もしかすると、いやなことを嫌と言えずに誰かにいじめられてしまうかもしれません。また、他人の立場を理解できずに結果的にいじめてしまったりはやしたてたりするかもしれませんし、止める勇気を持てずに傍観者になってしまうかもしれません。
 そんなときに、拳士ならば、あるいは金剛禅の教えで子供を育てようとするのならば、是非とも自分の弱さに真正面から向かい合って欲しいのです。そして、反省すべき忌まわしいいじめのその事件をばねにしてより一層修行に励んでもらいたいと思います。いじめは起こって欲しくないものですが、一度起こってしまったならばそれを機会に、自らを強くするチャンスだと思って、なお一層の修行に励むべきです。恐怖から逃げると、その場は楽になりますが、成長はありません。逃げ癖負け癖がついてしまいます。恐怖に立ち向かい目の前にある壁をぶち壊して前に進む事で、困難を乗り越えられるようになるのです。いったん乗り越える経験をすると、大きな自信がつきます。更なる困難をも乗り越える力がつくのです。決して逃げずに修行に励む事です。自分の周りからいじめをなくす唯一の道は、自分が強くなる事です。強くなって、自分の周りでは決して力による支配を許さないという覚悟で行動することです。自分自身が指導力を発揮して、いじめを許さないネットワークを築くのです。決して逃げず諦めずに、強くて優しくて賢い人になれるように修行し続けて欲しいと思います。いじめ撲滅運動の成否は、ひとえに拳士である私たち一人一人がどう行動するかにかかっているのです。ただし、いじめの程度がひどくて殺されそうになったり、あるいは自殺をも考えるようになったりするくらいなら、まずはその場から逃げることも大切です。いったん退いて、態勢を立て直した上で、開祖のように一人ずつ相手にして自らの尊厳を回復する道を、自分で改めて切り開けば良い訳です。「自分で自分を諦めない《というのは、自分の人生という長い道のりを天寿の尽きるまで歩き続ける事です。何回打ちのめされても自分で負けていないと思えば、負けではないのです。上撓上屈の達磨の子として負けない生き方を身につけて欲しいものです。
 それでは、拳士ではないという立場の方はどう対処したらよいのでしょうか。まずは、嫌だという声を上げる努力をしてほしいですね。大変な勇気がいる事ですが、なるべく早く声に出す事、また逃げること、そして相談する事です。深刻ないじめになる前に、行動に移して欲しいですね。先ほどのことと矛盾するようですが、弱さは恥ずかしい事ではありません。普通の人は弱いものです。弱い人を守るのが、我々拳士の喜びでもあります。拳士の皆さんには是非、そんな人たちから相談される頼れる人間になって欲しいと思います。

6、 嫌と言える勇気

 いやなことを嫌と言う。悪い事は悪いと言う。それこそ本当の強さです。だから、勇気のない人には、なかなかできないことなのです。わたしたち拳士は、声なき声が聞こえるようにアンテナを張っていなければいけませんね。私も、もっともっと注意して周りをよく見ていきたいと思います。

7、 自信の裏づけが勇気を生み出す

 自分の身を護れる、そういう自信が、また、自分が成長できたからこれからも成長できる自分を信じられる、そういう自信が、勇気を生み出します。自信と勇気は、理屈ではなく修練によって身につけるものです。私たちはみんなが、弱さを克朊して強くなるために如何なる艱苦にあっても決して挫折しないと誓って入門したはずです。決して泣き言を言わず後ろ向きにならないで、自分自身をよるべとできるように修行に励みましょうね。

8、 国際政治

 お話の最初に、いじめは、本能のままに生きている人が、他人を慮ることなく、何も考えずに差別し支配する事だと言いましたが、実は、その人間の悲しい性を利用して、計算づくでいじめさせようとする輩がいます。自分の利益を高め他人を支配するために、いじめたいという民衆の心理を利用するのです。頭の良いエリートたちが、国際政治の場でよく使う汚い手です。
 たとえば、ルワンダでは、ベルギーが統治を始めたとき、エスニックグループによる色分けをしました。ツチ族とフツ族をIDカードによって区別したのです。その上で、マイノリティーであるツチ族を、マジョリティーであるフツ族の支配者に仕立て上げました。こうすることによって、国民の上満は、ベルギーに対してではなく、直接の支配者であるツチ族に向けられるように仕向けたわけです。彼らはその汚い思惑通り、いじめの構造を展開していきます。少数派のツチ族は権力という大きな力を得て、フツ族の支配者として振舞います。逆に支配される側のフツ族は、やがて圧倒的な数の力でツチ族に対する報復を行います。こうして虐殺事件が発生し、恨みが恨みを呼ぶ報復の連鎖としての大虐殺につながってしまったわけです。
 国際社会は、力だけが正義であるかのような厳しい現実があります。今のイラク国民も、見方によっては大国のいじめにあったわけですし、イスラエルとパレスチナにしても、大国に振り回された結果の殺し合いです。自分さえ良ければ他はどうなってもいいと考える権力者によって、庶民は支配されてしまいます。世界中のあらゆる場で、立場で、その指導者たちが、「半ばは自己の幸せを 半ばは他人の幸せを《と本気で考え行動していかなければ、いじめのない平和な世界は実現できません。一人一説。身近なところから本気で世界を良くしていきましょう。また、権力者に惑わされずに平和で豊かな理想の社会へ向けて人々を正しく導ける、真のリーダーを目指しましょう。

9、 援けあえる頼もしい仲間

 私たちは、世界の平和と福祉に貢献する本当の勇者になろうと努力しています。自ら一生懸命に修養する事で、よこしまな心を抑え、他のために役立とうという誇り高い生き方をしようとしているわけですね。そのために必要な事は、まず何をおいてもダーマ信仰です。自分は生かされて生きている優れた人間である事を自覚して、少しでも良い生き方ができるように自己確立の厳しい修行に励まなければなりません。その修行の方向は、「半ばは自己の幸せを 半ばは他人の幸せを《自他共楽です。まずは自分の幸せを最大限に追求しましょう。でも頭の半分では、他の人の幸せも本気で考えましょう。自分の無い生き方や、自分しか無い生き方からは、決していじめのない平和な世界は生まれません。心のそこから、そういう生き方を目指していきましょうね。
 そしてまた、愛し愛されている実感が大切です。無償の愛を受けているという体験があると、自然に無償の愛を与える事ができるようになります。そういう心が、本当に必要とされ生かされているということの理解につながります。いじめられている人に対して、たった一人でも本気で愛し愛されている人が寄り添えば、きっとそのつらい状況を耐えそして抜け出す事ができるはずです。誰にも愛されていない、誰も愛する事ができないという事が、自ら死を選ぶきっかけになるということを肝に銘じておいて欲しいと思います。過去に、大館三ノ丸道院の仲間が、自ら命を絶ちました。その理由は定かでありませんが、もう二度とこのようなつらい思いはしたくありません。お互いに援けあえ、しかも厳しく指摘しあえる、頼もしくも素晴らしい生涯の仲間になりましょうね。

以上

 なお、このWEBサイトは、当道院平泉雅章拳士の企画製作により運営されています。この場を借りて感謝を申し述べます。

(宗)金剛禅総本山少林寺大館三ノ丸道院

道院長   小 林 佳 久

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