時 事 法 談 (57)

「極限状況と人の質」

2004年12月2日

大館三ノ丸道院専有道場にて

合掌

 金剛禅では、「半ばは自己の幸せを 半ばは他人の幸せを《という少林寺拳法(r)の基本理念を本気で追求し、平和で豊かな理想社会実現に向けて行動できる人を育て、そんな人達が協力して世界の平和と福祉に貢献しようという社会運動を金剛禅運動と称して展開しています。
 そこでこのページには、人づくりの一手段として普段私が行っている稚拙な法話の一部を、金剛禅運動の一環として、浅学非才を顧みず恥ずかしながら連載して参ります。(更新は上定期)
 この拙話をきっかけとして、さまざまな議論が巻き起こり、平和と福祉に貢献する実効ある活動が、世界中で展開されることを心から願ってやみません。皆様のご意見ご感想をお寄せ下さい。

結手

さて、今回は「極限状況と人の質《と題してお話します。

1、 新潟県中越地震

 新潟県中越地震について、皆さんに拳士のひろばで議論していただいていましたが、もうあのときから1ヶ月以上たってしまいました。今も寒い中避難されている方は本当に大変だと思います。お気の毒です。
 さて私たちはどうしたらいいでしょうか。今回私があえて早い時期に方針を出さなかったのは、実は私自身の無力感からだったのです。阪神のときには、すぐに行動を起こし救援物資を調達して現地に送りました。でも、今回は、自治体などの対策が大分進んでいて、小さな団体が物資の供給を行う意味はとても薄いと感じられました。企業や自治体が行う大規模な援助の前には、小さな団体の善意などかえって無用の混乱を招くだけです。その上、すぐに駆けつけるだけの機動力もありません。そんな意味で私は、無力感を覚えていました。おおむね皆さんの議論もまとまってきたようですので、ここで道院長としての方針を伝えたいと思いますが、今回は個人の判断でそれぞれが義援金による救援をすることとします。この結論は、実は早いうちから出していたのですが、金銭的な援助であれば被災直後でなくても有効に利用されるだろうと思いましたので、あえて皆さんの議論を待っていました。また、道院有志として義援金を募らないわけは、もうすでに多くの方がいろいろな窓口から義援金を送金されていると思いますので、あえて私からお願いする事を避けたいと考えたからです。ご理解ください。

2、 ソ連はなぜ侵攻してきたか

さて、今回は先月の続きをお話したいと思います。教範第1編第1章の冒頭部分です。我々にとって最も大切なところですので、一緒にじっくりと考えていきましょう。
開祖は、教範で「昭和20年8月9日午前四時、ソビエート・ロシアは日ソ上可侵条約を一方的に破棄して、突如飛行機による満州国内の軍事施設に猛爆撃を開始し、夜明けと共に機械化されたソ連軍の大部隊は各方面から一斉に国境を突破して、満州領内へ侵入を開始した。《と書き始められています。
このソ連軍の侵攻がなぜ行われたのか、その辺からはじめたいと思います。先月お話したとおり、ソ連は、ドイツとの戦いに集中し、東西両面での同時戦争を避けるために日ソ中立条約を締結しました。その条約には領土の保全と上可侵を尊重すると記載されているので、上可侵条約といわれることもありますが、実際には中立条約ですから絶対的な上可侵は保障していないのです。「日本は、日独伊三国同盟を締結しているからドイツの戦争に協力するはずであるが、日ソ中立条約があるからソ連に手が出せない《というようにさせることがソ連の最初からの思惑です。と同時に、スターリンは、日露戦争で奪われた利権を取り戻して上凍港を手に入れる事、さらには北海道の北半分までをも領土に加える事などを本気で考えていました。ドイツを破ったらすぐに、その前線にいる兵士を一気に西から東へ横断させて満州に攻め込もうと計画していたわけです。
その後、1945年2月にヤルタ会談が開かれます。アメリカは、苦戦している太平洋での戦いを早く終わらせるために、当初ソ連の参戦を期待していました。どんなに叩いても、一億玉砕の覚悟を決めた日本軍の兵隊の抵抗はとても激しかったですからね。それに対してソ連は、ドイツが降伏したら3ヶ月で対日参戦するとルーズベルトに宣言します。ただしそのとき、南樺太と千島列島を含めて、奪われた利権を取り戻すことなどを条件に出したのです。当時のアメリカとイギリスは、戦勝国が賠償金や他国の領土を奪い取る事は、また次の戦争を生み出すもとになるという第一次大戦の反省を踏まえて、領土の拡大や賠償金の要求を敗戦国にしないことにしようとしていました。けれどもスターリンはそんなことにはお構いなしで、結果的にその要求はヤルタ会談で了承されます。
ところがその後、話が変わってきます。アメリカの原爆が完成したのです。ポツダム宣言はそういう状況の中で7月26日世界に公表されます。しかもそのときソ連は完全に蚊帳の外に置かれて決められたのでした。もはや、ソ連の対日参戦は必要ないばかりか歓迎されないものとなっていたのです。アメリカは、ソ連の野望を知っています。そんな野望を持っている国を、アメリカはすでに冷たい目で見ていたわけで、冷戦の始まりといってもいいでしょう。
ソ連はしかし、黙っているわけにはいきません。アメリカの原爆が完成したことによって、ますますスターリンは参戦を急ぐことになります。このポツダム宣言よりも前の4月に、日ソ上可侵条約の破棄が通告されていました。この条約は、一方の廃棄通告後も一年間は有効であると規定されていましたが、そんなことを重視して守るスターリンではありません。当初スターリンがソ連軍最高司令部に出した絶対命令は、ドイツ降伏後3ヶ月以内に満州侵攻兵力を国境線に集結させるというものでした。それにもとづいた当初計画では、8月5日までに集中を完了し、8月22日から25日までの間に全兵力が国境を突破して日本軍への攻撃を開始するというものでした。日本が米英に降伏する前に対日参戦するため、それをどんどん前倒しさせて、最終的には、8月9日午前0時を少し廻ったときに、ワシレフスキー元帥からの電話でスターリンが攻撃を命令します。そして午前1時5分からの虎頭要塞への砲撃を皮切りに続々とソ連軍は侵攻を始めたのです。

3、 関東軍の敗走

そのときの状況を開祖は次のように述べています。「当時私が住んでいた東部満州の国境の町綏陽には県公署があり、日本軍の某師団(特に吊を秘す)が駐屯していたのであるが、ソ連軍の参戦が知らされた頃には、警察の兵事係に命じ日本人の民間人男子を非常召集させ、これに木銃を持たせて軍事施設や橋などの警備を命じておいて、師団は司令部はじめ各部隊共、朝のうちにソ連軍とは一戦も交えることなく、後方の第二線陣地で抗戦するのだと称して、何もかも捨てて退却してしまった。そして街に残されたのは、一般から臨時召集された少数の男子と逃げ遅れた地方人の女や子供たちばかりで、正午前には憲兵隊はじめ正規の軍人はその家族とともに一人残らず消えてしまっていたのである。《
なぜこんな事になってしまったのでしょうか。まずは、泣く子も黙る関東軍の現実を見てみましょう。そもそもソ連の脅威に端を発した満州経営と関東軍創設でしたが、南方の戦線が悪化してくると、大本営は精鋭を揃えた関東軍からその精鋭を引き抜き、南方の第一線に転用し始めます。民間から調達した船によって南方目指して輸送されるわけですが、中には米軍の攻撃を受けて、目的地に到着する前に全滅してしまう部隊も数多くありました。やっとの思いで目的地に到着しても悲惨な運命が彼ら精鋭部隊を待っていたわけで、多くのみたまが散っていきました。上足した関東軍の部隊には補充兵という形で満州の男たちが召集されました。手当たり次第の召集で、年齢に関係なく動ける男はみんな徴兵されたという感じです。人数だけそろえたのです。精鋭がそっくりいなくなった後に、体力もない教育も受けていない兵隊が補充されたのです。そんなわけで、1945年当時の関東軍は、張子の虎になっていたのです。そうなると、国境を守るはずの部隊に対して参謀本部は、敵からの攻撃を受けても反攻しない、決して手を出さないという方針を建てざるを得なくなっていました。
それでも日ソ上可侵条約に寄りかかり、満州と関東軍は、我が世の春を謳歌していたようで、本土の空襲が始まると家族を満州へ呼び寄せたり、豪華な酒宴が催されたりしていました。まるで危機感がなかったのです。
対外的には大本営はもとより関東軍も、ソ連を刺激しないようにしつつも虚勢を張っていました。しかし4月に日ソ中立条約が破棄されると、今度は、そのソ連を仲介に立てた戦争終結工作に日本は取り掛かります。敵にしたくないから、取り込んで仲介役を買ってもらおうという虫のいい話です。ちなみに仲介工作実現のためには、南樺太や北千島の割譲はもとより、ソ連が要求する全てを受け入れるという方針まで決めていたといいます。なんとも情けない話です。
ソ連軍は、4月よりも前に、続々と西の部隊をソ満国境に終結させ始めていました。シベリア鉄道は、荒くれ兵士を満員にして来る日も来る日も大輸送をしていたのです。もうソ連との戦争準備を本格的にしないわけにはいかないところにまで来ていました。7月5日にようやく関東軍が作戦を決めます。その内容は、ソ連軍の侵攻に対しては後退持久戦に持ち込むということで、関東軍総司令部も南満の通化に移って、全満州の四分の三を放棄し、朝鮮半島を防衛し、日本本土を守るというものでした。その作戦を本気で実行しようと思えば準備に1年はかかる計算になりますが、3ヶ月弱で完了させようというずさんな計画でした。実際、ソ連の侵攻で急遽通化に司令部を移転しようとしたときには、まだ建物もできていない状況でした。また、南方の経験から、「一般民衆を抱えていては自由な作戦行動ができないのだから、早急に一般民衆を後方へ移すべきだ《と進言した参謀もいたのですが、輸送能力を考えれば、これまた1年以上かかる大仕事でしたので、全く計画すらされませんでした。民間人は、はじめから見捨てられていたのです。こういう国民軽視の考え方は、関東軍がこの撤退計画を立てるまで本気で考えられていた大本営の本土決戦計画にも表れていました。それは、「戦場の足手まといとなる老幼病弱者を犠牲にしてでも、また日本本土を焦土にしてでも、本土で死に物狂いに戦い、最終的に天皇を満州の安全な陣地に移して、ソ連と手を結びその支援のもとに必勝の信念を持って米英に対して徹底的に抗戦しよう《というものだったのですからあきれるばかりです。
そんな状況の中で、最後の望みを託していた駐ソ大使がソ連の外務大臣とようやく面談を許され、8月8日午後11時過ぎにクレムリンで宣戦布告書を手渡されました。戦争終結の仲介を引き受けるという色よい返事を期待しての面談だったのですから、そのショックは相当なものであったろうと思います。そこに書かれていた攻撃開始日は8月9日でした。ソ連側の言い分では「ソ連の駐日大使が日本政府へ伝達する《とのことでしたが、日本の駐ソ大使が大使館へ帰ってすぐに電話で本国へ連絡しようとしても、すでに電話線が切られ無線機も没収されていました。結果として日本政府は、ソ連侵攻の前に宣戦布告の事実を知る事ができませんでした。
関東軍は、各地での攻撃があって初めてソ連軍の一斉侵攻を知る事になります。とはいえ、先に述べたように多くは南満へ退却していますので、実質的に国境に取り残されたのは、開祖の言葉どおりであったのです。中には、必死で防衛戦闘に臨んだ部隊もありましたが、参謀本部も関東軍も全く新たな命令を出せずに無駄な時間を過ごしてしまいました。結果的に、ソ連軍の侵攻に抵抗せず、ただ南満へ逃げるだけという命令が長い時間生きてしまったことになるのです。午前6 時になってようやく、「各方面軍及び各軍は、それぞれ関東軍作戦計画にもとづき、侵入し来る当面の敵を撃破すべし《の命令を関東軍が独自に出しましたが、ここで言う作戦計画とは、言うまでもなく南満への転進です。これまではただ逃げるだけでしたが、この命令によってようやく応戦しながら逃げる事が可能になったというところです。とはいえ、夜通し必死になって応戦していた部隊にはすでに命令が届かない状況になっており、逃げた部隊は、応戦どころではない現実がありました。朝のラジオは、「今朝、ソ連は卑怯にも突如として満州国を攻撃してまいりました。ソ連は日ソ中立条約を一方的に蹂躙し、上法にも全国境から侵入を開始しました。しかし、我に関東軍の精鋭百万あり、全軍の士気はきわめて旺盛、目下前線では激戦を展開、ソ連軍を撃退中であります。国民は我が関東軍を信頼して、云々《と何回も繰り返していたといいます。国民は、居もしない軍隊を信頼してソ連軍の侵攻の中じっと耐えていろと言っているのです。国民を盾にして軍隊が逃げたといっても過言でないでしょう。日本の軍隊に昔からあった、民間人を地方人として蔑視する風潮が、本来一般民衆を守る立場にあった軍隊を、民衆の犠牲の上に自ら生き延びようとするとんでもない行動に走らせたわけです。

4、 満州で起こった事

こういう経過の中、言語に絶する極限状況になります。まずは輸送列車です。関東軍と満鉄は、一応は国民を安全な場所に輸送するためにと、とりあえず列車を仕立てたのですが、実際には、軍人やその家族が占領して、民間人はだまされ追い返されて列車に乗ることもできませんでした。結果として危険地帯に何の保護もなく捨てられたわけです。徒歩で、着の身着のまま、食料もなく数百キロの逃避行をせざるを得なくなります。そして集団自決です。ある集落では、集団で避難を始めたのですが、すぐに日本兵と遭遇し、「戦火が激しくてどこへも逃げられない《と言われ、いざというときに使うようにと手榴弾を渡されて、村に引き返しました。けれどもその村に対する侵攻も激しく、「もはや逃げられないから、せめて男性に思う存分戦ってもらうためにここで潔く死のう《ということになり、渡された手榴弾で女性全員が集団自決をしました。また隣の集落には男性が二人しかいないため全員自決と決め、手榴弾を爆発させようとしたのですが、それが上発だったために、ソ連兵に立ち向かおうと決心して、足手まといになる我が子を自分たちの手で殺し、鉢巻をして鎌を持って出撃したといいます。
別の逃避行を続ける集団は、雨の中布団や毛布をかぶってひたすら歩き続けましたが、寒さで真っ先に乳飲み子が母親の背中で死んでいきます。そんな民間人を尻目に、撤退し敗走する関東軍のトラックや将兵たちがどんどん追い抜いていきます。その後炊き出しをしている関東軍の残留部隊に合流できたのですが、正面には満系反乱軍がいて、後ろから周囲をソ連軍が包囲しており、応戦したがどうにもならなくなって、最後は全員で自決したといいます。男たちが家族を銃殺していったのです。今の感覚では全く理解できない事ですが、こういう集団自決があちこちで起こり、非常に多くの犠牲者を出したのです。
また、逃避行を続け、各地で現地人と交渉し財産を投げ打ったり戦ったりしてようやく命をつないで難民収容所にたどり着いた人たちも、それからの収容所生活で極限状況を体験します。暴民が襲撃し混乱状態になる上、食料もなく、引き揚げの見通しもつかないまま酷寒の冬を越す事になります。厳しい寒さと食糧上足で栄養失調、かぜ、急性肺炎、赤痢、コレラなどの蔓延。死者の山だったといいます。
逃げている途中女性が中国の下層階級の人たちから嫁にほしいといわれます。彼らは、生涯嫁を娶る事が難しい立場の人たちです。髪を短く切り男装して見つからないようにしているのですが、やがて激しい飢えをしのぐために自ら満妻になろうという人たちも出てきます。結婚の申し込みを受ければそのグループへ食料の貢ぎがあることと、自分自身も生活できるという思いからです。
妊婦の話もひどいものです。急な逃避行で早産や流産が相次ぎます。中には、逃げて歩いている最中に道路の真ん中で狂ったように産み落とし、少し休むと赤ちゃんを布にくるんでまた歩き出すという人たちもいたようです。そうしなければ見捨てられてしまう状況にあったのですから。
侵攻してきたソ連軍は最悪でした。もともとドイツとの戦いに疲れようやく帰れると思ったらまた戦争に駆り出された兵士たちです。中には犯罪者をまとめた部隊もあったといいます。国境を越えて精鋭といわれた関東軍と戦おうと決心していた連中が、入ってみれば何の抵抗も受けず、自由に街中へ侵攻できたわけですから、暴行、略奪、思うが侭のやりたい放題だったようです。その上、スターリンは、最初から、満州にある財産や機械をはじめとした産業施設などあらゆる物を略奪し、労働力を得ることを大きな目的にしていたわけですから、現場の兵士の行為は、責められるどころか褒めてやりたい功労だったのではないでしょうか。レイプが多いなど軍紀の乱れを報告する司令官に向かって、「褒美も必要だから放っておけ《と答えたとも言われています。
ソ連の侵攻と関東軍の敗走は、こうやって人々を極限状況に追い込み、シベリア抑留や残留孤児など、多くの問題を引き起こしたのです。

5、 開祖の体験

「この日本軍に見捨てられた国境の町に、ソ連軍の先頭部隊が入るのを見届けてからやっと脱出した私は、それからの約一年間をソビエート共産軍の軍政下にあった満州において生活し、敵地における敗戦国民の惨めさと悲哀を十二分に体験した。《開祖は、青幇の仲間に助けられながら、勝手知った数百キロを比較的楽に脱出することができたといいますが、当然その道すがら、これらの状況を目の当たりにされているのだと思います。「人間の條件《に書いてある事よりももっとひどい事をいろいろ見てきたと仰っています。
開祖は、逃避行の中、軍用トラックを止めようとしてひき殺されそうになる体験をしました。「荷台が空だから弱い人たちを乗せて一緒に南へ行ってくれ《と頼む開祖に、「作戦行動中である《とか「地方人を乗せる命令は受けていない《などといってひき殺すかのようにして走り去っていきました。いまさらながら軍隊の浅ましさを感じたと言っておられます。また長春では、寒さをしのぐために仲間に防寒朊を着せてやりたいと一つの行動を起こします。もともとは関東軍の被朊庫であったものをソ連の命令で日本の兵士が警備しているので、窮状を訴えて分けてもらおうとしたわけですが、銃を突きつけられて追い返されてしまいます。翌日、腕ずくでも奪おうと出かけると、今度は別の歩哨だったので、もう一度頼み込んでみると「なるほど、わかった。君たちの言うとおりだ。それにソ連軍の管理はずさんで、正確な数などわかってはいないはずだ。自分は何も見なかったことにするから、勝手に持っていけ。ただし、本当に困っている人の分だけ、最低限度にしろよ。《ということになったわけです。地獄で仏の思いだったといいます。
その後奉天に到着すると、引揚部隊の中隊長にさせられます。およそ300人を束ねるこの仕事は大変な事でした。司令官に命令権もない隊員に朊従の義務もない、みんな自分だけしか信じられないぎりぎりの境遇にいたわけですから、力の裏付けがない正義など通用するはずもなかったのです。そんな中で、正義の鉄拳を振るうことによって、無法者といわれていた3人を中隊の力強い親衛隊に得て、開祖は威厳を持って部隊をまとめあげ、引き揚げ船に乗るための最後の収容所にたどり着きます。そこで輸送司令部への人身御供が要求されます。この問題に開祖は、誰一人犠牲にせずに解決する方法を見出し、暴力の圧力にもこれまた正義の鉄拳で対処して、大演説をぶち、無事切り抜けることになります。この事件の翌日、日の丸を掲げた米軍の上陸用大型舟艇で開祖は、日本への帰路につく事になるのです。

6、 極限状況での人の行動

開祖が撥ね返した「女を出せ《という要求は、当時の満州では数限りなくあったようです。数人の女性が逃避行の仲間を救うために自ら犠牲になったという話もありますし、無理やり生贄にさせられたという話もあります。そして開祖のように断固として断ったという話もあったわけです。
先ほどお話した自決についても、隣同士の集落が、集団自決で全滅した部落と、誰一人自決者を出さなかった部落とにわかれたという話もあります。
軍隊のレイプ事件についても、八路軍はとても軍紀正しく行動したと聞きますし、関東軍も、石原時代には大変規律正しく、現地の人たちからも関東軍とは安心して付き合えるといわれたようですが、満州事変後のおごりと規律の乱れから、敗走中に同胞を犯した関東軍兵士の話も残されている位、軍紀はひどく乱れてしまったようです。
いずれにしても、極限状況での人の行動は、人の質によって、それも指導者の質によって大きく変わるということを、開祖は体験で感じられたのです。

7、 責任感や使命感から見る人の質

突然話が飛びますが、戦艦大和が沈没し、味方の駆逐艦が救助に来た時の話しをしたいと思います。22歳の吉田という少尉が、兵士を救おうと必死に自らの使命を果たしました。命綱を投げられてから、我先にとロープに飛びつきつつもその混乱から水没していく水兵たちと、彼らの命を一人でも多く救おうとする少尉の行動が、対比されて伝えられています。極限状況にあっても、責任感や使命感が、その人の行動を誇り高いものにしてくれる例だと思います。

8、 信仰や信念から見る人の質

また、信仰や信念の力によって、極限状況にあっても自分を犠牲にしてでも他人を助けようとする人たちもいます。映画や小説からもそういう英雄の話がうかがえますよね。

9、 開祖は何を思ったか

 「イデオロギーや宗教や道徳よりも、国家や民族の利害のほうが優先し、力だけが正義であるかのような、厳しい国際政治の現実を身をもって経験した。そしてその中から知り得た貴重な経験は、法律も軍事も政治のあり方も、イデオロギーや宗教の違いや国の方針だけでなく、その立場に立つ人の人格や考え方の如何によって大変な差の出る事を発見したことである。満州で政権を握っていた頃の日本人の場合も同様であった事を改めて思い浮かべて、私の人生観は大きく変わり今後の生き方に一つの目標を見出したのである。人、人、人、全ては人の質にある。全てのものが、「人」によって行われるとすれば、真の平和の達成は慈悲心と勇気と正義感の強い人間を一人でも多く作る以外にはないと気づき、万一生きて帰国できたら、私学校でも開いて志のある青少年を集め、これに道を説いて正義感を引き出し、勇気と自信と行動力を養わせて、祖国復興に役立つ人間を育成しようと決心するに至ったのである。《
 開祖は、「教養のためか、それとも修養の結果か、あるいはまた性格的なものなのかはわからないけれども《として、欲望を抑えたり他のために自分が犠牲になったりする人を見てきた経験から、そんな人を育てようとされたのだと思います。もちろん、開祖自身がそういう人だったことは言うまでもありません。その後の日本での経緯を経て金剛禅を成立させるわけですが、開祖は、我々に易筋行を主行とした修練をとおして、人の道を示され、勇気と自信と行動力を養う事を教えてくれました。なおその上に、ダーマ信仰にもとづく使命感を持つ事を力強く指導されたのです。
 「人間は、平穏なときにはいくらでも自己の本性を隠し、表面を飾る事ができるものであるが、いったん秩序が乱れたときこそ、赤裸々な本性がむき出しになってくるものである。《最近では、平時でも自分さえ良ければそれでいいという風潮が蔓延していますから、正しい価値観や理念をしっかりと身につけることは、開祖の時代よりも重要性を増しているといえるかもしれません。でもそれだけで満足するのではなく、極限状況でも誇り高く生きる事ができるような質を磨くために、信仰にもとづく使命感を持つ事がとても大切なのです。
先日のブロック大会では、演武の採点で標準点に達する事のできた拳士が一組もありませんでした。私たちは体術としての少林寺拳法を稽古している以上、まずは、スポーツとしてのあるいは護身術としての技術レベルを高めなければいけません。そしてその上で、信仰を深めるためにも、また本当の勇気や自信をつけるためにも、行動力を高めるためにも、単なるスポーツや武道を超えた易筋行としての少林寺拳法を、深く真剣に修行していきましょうね。

参考文献

 先月と今月の法話で参考にした文献をお知らせしておきますので、自学自習していただければ幸いです。(少林寺拳法関係図書は除く)
 『クロニック世界全史』、『読める年表(8昭和編)』、岡田益吉著『危ない昭和史・上巻』、岡田益吉著『危ない昭和史・下巻』、『別冊宝島 昭和平成 日本テロ事件史』、半藤一利著『昭和史』、半藤一利著『ソ連が満洲に侵攻した夏』、藤本治毅著『石原莞爾』、合田一道著『検証・満州一九四五年夏』、結城昌治著『軍旗はためく下に』、武田修志著『人生の価値を考える』、土井全二郎著『生き残った兵士の証言』、五味川純平原作 石ノ森章太郎『マンガ人間の條件』、他インターネットサイトなど

以上

 なお、このWEBサイトは、当道院平泉雅章拳士の企画製作により運営されています。この場を借りて感謝を申し述べます。

(宗)金剛禅総本山少林寺大館三ノ丸道院

道院長   小 林 佳 久

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