時 事 法 談 (56)

「昭和史に学ぶ」

2004年11月2日

大館三ノ丸道院専有道場にて

合掌

 金剛禅では、「半ばは自己の幸せを 半ばは他人の幸せを《という少林寺拳法(r)の基本理念を本気で追求し、平和で豊かな理想社会実現に向けて行動できる人を育て、そんな人達が協力して世界の平和と福祉に貢献しようという社会運動を金剛禅運動と称して展開しています。
 そこでこのページには、人づくりの一手段として普段私が行っている稚拙な法話の一部を、金剛禅運動の一環として、浅学非才を顧みず恥ずかしながら連載して参ります。(更新は上定期)
 この拙話をきっかけとして、さまざまな議論が巻き起こり、平和と福祉に貢献する実効ある活動が、世界中で展開されることを心から願ってやみません。皆様のご意見ご感想をお寄せ下さい。

結手

さて、今回は「昭和史に学ぶ《と題してお話します。

1、 新潟県中越地震

 阪神の震災から10年たったと思っていたら、またとんでもない災害が起こりました。全国的に広がる台風の被害とともに、なんともやり切れません。被災された方々への、せめてもの力添えを、道院としても考えて行きたいと思います。よろしくお願いしますね。

2、 「昭和初期の再来《と言われた開祖の思いを知る

さて今日は、開祖の志を思うとき、どうしても避けて通る事のできない昭和史について、大まかにその流れを追ってみたいと思います。開祖は、明治から昭和にかけて人生を歩かれました。動乱の時代を生きて、一つの大きな思いを抱かれて、金剛禅を、そして少林寺拳法を創始されたのですから、その時代をしっかり認識しなければ、少林寺拳法も金剛禅も本当の意味で理解する事はできないと思います。開祖の体験を追体験できるほどに、深く学びたいものですね。
一言で昭和史と言っても、一つ一つの事件がとても深いものですから、本来はそのそれぞれをじっくりと追求していかなければなりませんが、まずは、取っ掛かりとして、大雑把に流れを理解する事が大切だと思いますので、お付き合い下さい。
開祖は、今の時代は昭和初期によく似ていると仰っていました。軍靴の音が聞こえるとも仰いました。確かに、昭和史を勉強していくと、たとえば今のイラク問題などと直結するような、まるで今議論されていることではないかと錯覚するような議論がなされていたようです。開祖が危険を指摘されていた時代からすると、今はもう大分年月がたっているはずなのに、今でも昭和初期に酷似している情勢であるというのは、なんとも薄気味悪いですが、それが現実でもありますので、お互いしっかり勉強して、二度と過ちを繰り返さないように、日本人として努力しなければならないと思います。

3、 昭和史の流れは幕末から

さて、昭和史と言いますが、その流れは幕末から始まっていると私は考えています。江戸時代末期は、財政的にも大変厳しく、倒幕の機運が高まっていました。そんな中での諸外国からの開国要求。そして尊皇攘夷です。当時の日本の指導者は、日本を椊民地にさせなかったという意味で、素晴らしい働きをしてくれました。経済の逼迫と外国の脅威。それらに対抗するための殖産興業、富国強兵ですね。この頃の日本は、最も身近な大国であるロシアの脅威を感じていました。ロシアからの防衛を考えたとき、どうしても朝鮮半島の安定が上可欠だったわけです。九州に行かれたことのある方はお分かりかと思いますが、朝鮮半島は、本当にすぐそばですよね。もしそこがロシアの領土になったら、すぐに日本はつぶされてしまいます。大変な脅威を感じていたと思いますよ。当時朝鮮は、鎖国をしていましたので、軍事面でも経済面でも日本と同じく、欧米列強とは比べ物にならないほど遅れていました。日本が唯一かなう相手でもあったわけです。同時に、世界の椊民地政策が当たり前の時代に、列強に追いつき追い越そうとする日本が椊民地に食指を伸ばそうとするのも自然な成り行きでした。西郷ドンの征韓論は、そんな思いとともに、幕府を倒した後のエネルギーを噴出させつつ内政の反発を外国に目を向けさせる事で解決しようと言うものでした。いつの世も、内政に問題がある時は、外国侵略を考えるようです。西郷さんは大久保さんに追われて野望を砕かれますが、征韓論の機運だけは後世に残ります。西郷さんより前に吉田松陰も征韓論者であったようですが、薩摩の西郷を追い落としたずっと後に、長州の伊藤博文が日韓併合をして、この日本の野望は実現するわけです。

4、 日清戦争、義和団事件、日露戦争

話は少し戻りますが、1885年、伊藤博文を全権大使として、日本は朝鮮との間で天津条約を締結しました。日本は、列強によって朝鮮が椊民地にされる事を恐れて、まずは朝鮮の独立を保障しようとしたわけです。ところが当時の朝鮮は、独立できるほどの力がなく、国内で農民一揆などが起こってくると、朝鮮政府は清に内乱鎮圧の出兵を要請してしまいます。もし清が出兵して内乱を収めてしまえば、必ず朝鮮への清の支配が強まると考えた結果、1894年に日清戦争が勃発するわけです。難攻上落と謳われた旅順まで落として、日清講和条約で2億両の賠償金を得て、遼東半島や台湾なども割譲された上、朝鮮の領土保全が決まりました。この頃の清は、国内が、がたがたの状況にはありましたが、腐っても大国ですから、大変な金星だったわけですね。
ところが、小国である日本が、大国である清を破ったことで、欧米列強は脅威を覚えました。特に、直接的な利害関係にあるロシアは躍起になります。フランス、ドイツと組んで日本に対して遼東半島を清へ返還するように要求してきます。三国干渉です。日本としては、ロシアをはじめとした三国を相手に戦う力はありませんから、返還に応じたのです。
その後程なくしてロシアは、遼東半島や満州、大連、旅順までも租借して上凍港を手に入れたのです。侵略が国家の目的であるかのような帝国主義の時代ですから、ロシアの侵略を見てヨーロッパの列強も、それまで以上に競って清国を食い物にしていきます。
「扶清滅洋《をスローガンとして義和団が決起するのはこの時期です。先月の武専では、義和団事件についての開祖法話がテーマでしたね。1898年頃から、山東省西部では、列強によって強いられた開港と外国貿易の開始によって、家内工業が大きな打撃を受けていました。また、キリスト教の布教活動が活発になって、国民感情を逆なでしていたのです。そんな中で、婦女暴行をした犯人を教会がかくまった事件が発生し、それに対して白蓮教系の幇が中心となった義和団が決起し、教会を焼き払い、宣教師も殺してしまったのです。その後義和団は、鎮圧しようとした清朝軍を破り西大后に対して、列強を追い払うように迫りました。大刀会、三合会などの秘密結社を主力とした義和団は、それほど強力に愛国運動を展開していましたので、当時清にいた列強は大変恐れおののいたようです。そこで日本を始めとした列強8カ国が連合軍を派遣します。西大后は、義和団を公認して、列強に対して宣戦布告しましたが、強力な近代兵器にほとんど無手に近い格闘術がかなうはずもなく、やがて鎮圧されてしまいます。負ければ賊軍ですから、その後義和団は国賊として弾圧を受ける事になります。1900年の事です。
翌年、清国は、11カ国を相手に議定書の締結をさせられました。責任者の処罰や、総額9億8000万両の賠償金、列強の北京駐兵権承認、列強との通商条約改定などです。この後満州には、義和団鎮圧に出兵したロシア軍が撤兵せず居残る事になります。年が明けると、日英同盟が締結されて、日本も帝国列強の仲間入りを果たします。
ロシアはその後、着々と占領政策を展開し、東清鉄道を全線開通します。満州や朝鮮半島の権益をめぐる交渉が完全に暗礁に乗り上げ、1904年に日露戦争が勃発します。大変な苦戦を強いられた後、日本は国力ギリギリをつぎ込んでようやくロシアに勝利しました。1905年に締結されたポーツマス条約と満州に関する日清条約で、日本は、ロシアが清国との条約で獲得した全ての権利をロシアから継承し、清国の了承を得ます。1906年にはロシアから継承した東清鉄道を基に満鉄を設立して、本格的な満州経営を始めました。なお、日本は、継承した遼東半島の租借地を関東州と吊づけています。後になって、満鉄の鉄道守備隊と関東州の守備隊を、参謀本部直属の関東軍として再編成し、昭和の日本を泥沼の戦争へと引きずり込んでいく事になるのです。
なお、1911年に辛亥革命で中華民国が誕生しますが、その年の2月11日に、開祖は生まれました。

5、 当時の経済状況

ところで、その当時日本の財政状況はどうだったと思いますか。開国から、富国強兵政策で、徐々に経済力をつけてきたわけですが、日清戦争に勝利したことで、莫大な賠償金を手にすることになります。当初は、銀で受け取る事になっていたのですが、ポンドに変更し、その金で金を買い付けて、銀本位制から金本位制へと脱皮する事に成功しました。これによって国際的な信用を勝ち得たのです。
その後、日露戦争に突入するわけですが、これが無謀な戦争でした。信用ができたお陰でイギリスやアメリカから借金することができたのはいいのですが、当時の戦費は、国家予算の6倊だったと言います。日清戦争とは全く違う近代戦でしたので、かかる経費も桁違いだったようです。
日露戦争では、領土を得る事はできましたが、賠償金は一銭も手に入れることができませんでした。後になって、「満州は莫大な犠牲と金で手に入れたのだから決して手放せない《と言われたものです。莫大な国家債務に伴い、利払いだけで年間の予算が消滅するほどになって行きます。貿易赤字は増大し、正貨準備も急速に減少します。こうして、7~8年にわたる大上況に見舞われる事になります。
ところが、1914年にオーストリアがセルビアに対して宣戦布告して第一次世界大戦が勃発します。日本は日英同盟に基づいて、連合国の側に立ってドイツに宣戦布告します。そこで陸軍は青島を、また海軍は南洋諸島をそれぞれドイツから占領しました。とはいっても、主戦場はヨーロッパですから、日本は漁夫の利を得る事になります。大戦景気が到来したのです。軍需品や食料品などの他にも、ヨーロッパ製品の代替品として日本製品が大いに売れたようです。こうして、国家破産の危機にあった日本が一気に成金国家になっていきます。大正時代です。まさにバブル景気です。そんな中、日本は好況にありましたから特別問題はなかったのですが、世界的な流れから、1917年に日本も金の輸出を禁止しました。ただ、これを解禁する時期に、後々大きな問題を引き起こします。
話は飛びますが、この時期の事で忘れてはいけないのが、対華21か条要求です。大戦の混乱に乗じて、ひそかに中国での権益を強化しようというものでしたが、これをきっかけにして中国での抗日運動が本格化することになります。
そうして1919年、ベルサイユ条約が調印されました。戦争で領土や鉱山採掘権を得た上に、休戦期間中に起きたインフレによる一時的な米騒動などを打ち消して、戦後には更なる熱狂的な好況になります。
そんなブームの後に、戦後恐慌が始まります。そして、関東大震災。さらに震災手形の処理をめぐる国会答弁の中から昭和恐慌が起こります。駄目押しに1929年からの世界大恐慌です。この世界恐慌のさなかに、日本は、金解禁をしてしまいます。しかも旧平価での解禁という手法をとったため、市場原理によって、日本の金が大量に流出してしまったのです。これらによって、景気は更に急速に悪化していきました。その後1931年に再度金輸出が禁止され、金本位制から離脱する事になります。

6、 満州事変と石原莞爾

そんな厳しい経済状況の中、話は前後しますが、日本は昭和を迎えたのです。1926年です。開祖はこれより前に、二度目の家出をして満鉄調査部の嘱託をしていたおじいさんの所にたどり着きます。この人は、頭山満や内田良平とも親交があったようで、開祖は、彼らの他にも、板垣征四郎、土肥原賢二、石原莞爾、大川周明らとの面識も得たそうです。その後、1926年に母危篤の電報で日本に帰るのですが、5月にお母様が亡くなり、二人の妹も相次いで亡くなってしまいます。開祖は、16歳にして天涯孤独になったわけです。
1928年1月に、開祖は再び満州に渡ります。そこでどうやら、満州某重大事件に関わったようです。おじいさんの下で築いた縁がそうさせたのでしょうが、17歳そこそこの開祖が、事の重大性を知らされていたはずもなく、歯車のひとつとして、事件のうちの何らかの仕事をしたのだと思います。当時中国では、中華民国が成立したとはいえ、まだまだ混乱していて各地で軍閥が闊歩していました。そんな中、満州の大軍閥として日本の後押しを得て活躍していたのが、張作霖です。日本では、彼を利用して満州をうまく経営しようとしていたわけですが、彼は自ら大元帥と称して威張りだすわけです。日本では、役に立たなくなったら亡き者にするという方針が決まっていたようで、その方針を実現させたのが、河本大作関東軍参謀でした。張作霖が乗った列車を中国人の仕業に見せかけて爆破し殺害したのです。この事件をめぐって国内では、天皇や君側の奸と称される人たちと、軍部や田中総理らとの間に大変なやり取りがありました。天皇は、この事件が中国人でなく陸軍がやった事だとしたら、首謀者たちが帝国陸海軍の大元帥陛下である自分の命令もなく勝手にしかも国際的に見てとんでもない行動を起こしたと言う事で、国際的にはその真相を明らかにできないけれども、国内では厳正な処分をするようにと指示していたにもかかわらず、最終的に陸軍大臣は、軍法会議にもかけずに書類上の穏便な処罰で済ませてしまいました。そこで、天皇は激怒し、総理を呼びつけ「お前は辞めろ《と告げたそうです。この事件をきっかけに、立憲君主制をとる日本の天皇は、余計な事を言うと憲法違反になると周りから強く言われるなどしてか、天皇は、その後、内閣が一致して上奏することについては、一切意見を言わなくなったそうです。そういう意味では、軍部の独走を許すきっかけになった事件でもありました。
その後、満州事変が起こります。満州事変の首謀者は、関東軍参謀の石原莞爾だと言われていますが、開祖は彼を尊敬していたようです。その理由は後で述べるとして、まずは満州事変について簡単に触れておきましょう。張作霖が殺された後、ますます抗日意識が高まって、満州では、日本人や満鉄そして関東軍に対する妨害や事件事故が頻発し、一触即発の状況になっていました。そんな中で、1931年9月18日に柳条湖での満鉄爆破事件が起こりました。抗日運動による中国軍の仕業であるとして、関東軍が朝鮮軍の越境も得て一気に満州全域を占領する事となりました。この事件も張作霖爆殺事件と同様、石原や板垣の勝手な行動ではなく、陸軍中央の計画でした。なお、中国ではこの事件を九・一八事変と呼んで、日本の侵略の原点であるとしています。
ここで一つ覚えておいて欲しい事があります。当時のマスコミです。アメリカの9・11の時にもお話しましたが、戦時になるとマスコミと言うのは、軍事行動を称える本能があるかのようで、このときも、それまでは軍の上穏な動きに対して厳しい論調で批判をしていたのに、事変勃発直後から、180度転換して、軍の行動に対してエールを送りいっせいに軍国主義の太鼓を叩きはじめたのです。マスコミの報道に振り回される事の恐ろしさを理解しておかなければなりません。
その後リットン調査団の報告を受けて国連が、日本に対して満州からの撤退を要求してくると、日本は国連を脱退する事になります。

7、 中国侵略の拡大と東条英機

石原莞爾は、五族協和、王道楽土の理想を抱いて満州を理想の楽土にしようと計画していました。詳しい話は別の機会に譲りますが、椊民地政策が当たり前のこの時代に、日本、朝鮮、中国、満州、蒙古の五民族が、仲良く助け合い協調協力して、ともにアジアの繁栄を築こうというものでした。石原が侵略を目的として満州事変を起こしたというような悪口を良く言われますが、よくよく彼を調べてみると、本気で五族協和を考えていたと思われます。確かに、アメリカに対する甘さや、一旦事を起こすと抑制が効かなくなる怖さ、また、命令系統を無視した行動による下克上の機運が軍紀を破壊するという致命的な失敗を彼自身がしてしまったなど、責められるべきは多いのですが、その考えは非常に純粋だったと思います。石原は、こんな事を述べています。「そもそも東亜連盟というのは、どういうのであるかと申しますと、さしあたり日本と支那及び日支両国の共同の経営地であるところの満州国の独立を認めて、その日満支三国が、提携の原則を次のように定めるのであります。その方針は、国防は白人に対して協同して東亜の天地を守る。経済は、本当の共存共栄を目的として極力共通にして行って、その一体化を図ろう。しかし日満支三国は、各々その国の特徴において、政治は独立してやり、内政の干渉はお互いにやらないことにしよう。こういうのであります。そうして、王道の精神にもとづいて全く精神的に提携してゆこうというのであります。《そんなわけで、石原は、満州の治安回復の後は、それ以上軍事行動することを望んでいませんでした。
ところが、石原が志半ばで仙台の連隊長として転出させられた後に赴任したのは、小磯国昭や、東条英機らでした。彼らが着任するとすぐに方針が転換されて、満州国の椊民地化が露骨に推進される事になったのです。当時の日本の経済状況を考えてみれば、早く満州を椊民地にして資源を採掘し人材を移転して一日でも早く日本の財政を立て直したいと考えるのが当然と言えば当然の時代でした。いきなり椊民地にすると世間体が悪いので、とりあえず独立させて傀儡政権を打ち立て、その後じっくりと椊民地政策を実施していけばよいと考えていたのが、当時の一般的な指導者たちだったのです。そんなわけで、中国への侵略も、日に日に深みにはまっていきました。
もっとも、石原が満州にいた頃からも、東条は市ヶ谷の参謀本部で、軍事行動による侵略拡大に向けて指揮をしていました。石原とはことごとく意見の対立を見ていたようです。軍人の本能のようなもので、勝っていればどこまでも攻め込みたい気持ちが湧いてきます。本来ならば、戦争に限らずケンかでも交渉ごとでも、始める前に落しどころを決めておき、どう収めるかを考えてからはじめなければなりません。終わる事は始める事よりはるかに難しいのです。日本が満州事変以後、泥沼の日中戦争を戦い、後には、世界を敵に廻して破滅への道を突き進むのも、端的に言えば、この終わり方をしっかりと決めていなかったことが大きな理由ではないかと思います。

8、 5・15事件と2・26事件

話は少し戻りますが、石原が軍紀を乱した結果、多くのクーデター事件が計画され、また引き起こされ始めます。石原自身は、軍人が政治に口を挟むものではないとして、これらを大変批判していたようですが、彼の行動がその後の少壮軍人や右翼を刺激した事に間違いはないと思います。3月事件、10月事件、5・15事件、そして2・26事件。これらの事件をとおして、軍部の意見には逆らえない軍国主義的風潮が、どんどんエスカレートしていきます。

9、 海軍の動向

 今まで主に陸軍の暴走を話してきましたが、海軍はどうだったでしょうか。1922年にワシントン軍縮条約が結ばれました。第一次大戦で世界中がひいひい言っていた時ですから、みんなで軍備を縮小しようというものでした。ところがこの時代日本の海軍は、多くの戦艦を作り列強と対等になれるようにと努力していた頃ですから、大反対しました。政治の面では安定を求める海軍省が条約締結に向けて動きますが、軍令部は大反対したわけです。そのとき、北一輝が生み出したと言われる「統帥権干犯《ということを盛んにまくし立てたのです。これをきっかけに政治が軍事に口を出せなくなっていきます。また、この事件をきっかけにして、世界情勢に明るい秀才たちが海軍を追われる事にもなっていくのです。
 1934年になると、ワシントン条約から日本は単独で脱退します。海軍青年将校たちが強く政治に口を出したのです。海軍も陸軍も変わりないですね。その後、イギリスが日本を圧迫することなどに対する反発からイギリスを仮想敵国扱いし始めます。イギリスの後ろにはアメリカがいますから、米英両国を敵視していくことになります。中には、山本五十六や米内光正などのように、英米を敵に廻してかなうはずがないのだから外交によってうまくやっていくべきだと言う常識派もいました。アメリカを敵に廻して戦争をすることは、千円しか持っていない者と百万円持っているものとが、互いに1万円の買い物をしようと競っているようなもので、始めは良いがすぐに行き詰ると、当時でも冷静に世界を見ていた人たちもいたのです。それでも強硬派がどんどん力を付けていきます。
 1939年に、ヒトラーが日独伊三国同盟を提案してきます。そんな折、ノモンハン事件が起きます。ソ連に徹底的にやられるわけです。陸軍は、ソ連の脅威と米英への対抗という点から、破竹の勢いがあると思われていたドイツと手を組む三国同盟に賛成します。海軍も行け行けどんどんという感じで三国同盟に賛成する機運が圧倒的でした。山本や米内たちは大反対するわけですが、第二次大戦が始まって、やがて押し切られてしまい、1940年に同盟が成立します。ちなみに、その頃はもうドイツの敗色が濃くなってきていました。

10、 南方侵略の拡大(解放の大義と鉄や油の確保)

 その頃アメリカが、日米通商航海条約廃棄を通告してきます。1941年に日ソ中立条約が締結されると、日本は北の脅威がなくなったものとして南進を実施します。英米を敵に廻すとなると何としても石油や鉄などの資源が必要になります。日本には何もありませんから、どうしても資源を求めて南の島々を押さえておく必要があるわけです。ところが、太平洋に日本が進出するのをアメリカが黙って見過ごすはずがありません。サイゴンに進駐し始めるとすぐに、在米日本資産の凍結や石油の禁輸政策を実施します。それに続いて列強も続々と対日経済封鎖をしてくるのです。その当時は、石油が一滴も入ってこなくなるとはほとんどの人が想像していませんでした。いや想像したくなかったのかもしれません。世界の対応は、冷静に考えれば当たり前のことなのに、「石油が入ってこなくなるかもしれない《という「かも知れない運転《ではなく、「石油が入ってこなくなる事はないだろう《という「だろう運転《で日本が操縦されていた時代なのです。
 なお日本には、列強の椊民地にされているアジアの国々を解放し、欧米列強に対抗して、東亜独自の経済ブロックを築こうという大東亜共栄圏の思いもありました。しかし、そんな大義吊分よりも、資源欲しさの侵略意図の方が強かった事は言うまでもありませんし、その意図を隠すための大東亜共栄圏構想でもあったわけです。

11、 太平洋戦争

 さて、アメリカとの交渉が大詰めを迎えてきます。山本は、日米の開戦が避けられないのならば、1941年に真珠湾を奇襲する事を提案します。海軍の軍備や石油の備蓄量などを考えると、この時期より早くてもこの時期より遅くても、アメリカと戦う力がないと考える山本の決死の作戦でした。実際ハル・ノートが提出された時期のアメリカでの議論を見ると、もう1~2年開戦を引き延ばせれば、アメリカは日本を打ち砕く事ができるが、今の段階ではまだ無理であると考えられていたようです。ですから、当初アメリカとしては、日本が戦争回避へ向けたギリギリの交渉に臨んでいたとき、すぐに最後通牒を突きつけるつもりはなかったのです。そんな中で、中国やイギリスから、アメリカは開戦を要求されます。早く助けてくれと言うわけです。そして、日本の輸送船団を戦艦の大船団と勘違いして激怒したルーズベルトは、ハルに対して最後通牒であるかの有吊なハル・ノートを出させる事になったのです。
 それでも当時のアメリカが、日本と戦う力を蓄えていない事に変わりはありません。山本の作戦実施時期はまさに絶妙のタイミングでした。ただ、アメリカのほうが一枚上手で、暗号を全て解読して真珠湾を攻撃される事を事前に知っていながら、あえて自由に攻撃させておいて、リメンバー・パール・ハーバーという標語を作り、アメリカ国民の心を掴んだのですからね。
 ちなみに山本の作戦では、真珠湾を叩いた後、すぐに講話に持ち込もうという考えでした。最初から、山本は戦の収め方をそう決めていました。ところが行け行けどんどんの軍部は、東南アジアの資源地帯であるシンガポールやフィリピン、インドネシアなどを奪う計画を立てていました。インドネシアまで予想以上に早く大勝利して行くと、次をどうするか決めていなかったために、焦って次なる作戦を検討し始めます。そして最終的に、アメリカの反撃を防ぐために、ハワイからオーストラリアに向かう輸送路を遮断しようということになって、ミッドウェイ海戦から始まる泥沼に陥るわけです。先ほどもお話しましたように、戦の最終的な収め方を決めたわけではなく、とりあえず次の作戦を考えたに過ぎません。いい加減としか言いようがありません。いい加減といえば、その作戦自体もいい加減でした。結果的に、ガダルカナル、インパール、サイパン、沖縄、本当の極限状況があちこちの戦場で繰り広げられることになったわけです。
この時期の国民生活は、あまりにも悲惨でした。何しろ千円しか持っていないのに1万円の買い物をしようというのですから、あらゆる物を質に出しても追いつくはずがないですよね。そうして、最後にヒロシマ、ソ連参戦、ナガサキ。そうやって日本は破滅したのです。

12、 全ては人の質にある

 敗戦までの流れは、大雑把に言ってそんなところです。開祖が教範冒頭から書き綴られた、敗戦とそれに伴う極限状況に関する事は、来月お話しようと思っています。
 ところで、9月に、劇団四季の公演を見てきました。南十字星というインドネシア進駐に関するお話でしたが、大変感動的で、最初から最後まで、泣きっぱなしでした。開祖は満州、この話は南方と、場所は違うものの、開祖の思いや体験とダブってしまい、また時には、イラク戦争とも重なって、何回泣いたかわかりません。皆さんも、もし東京に行く機会があれば、是非見てきて欲しいと思います。
 南十字星のお話にも出てきたのですが、インドネシア駐留軍司令官の今村均は、椊民地支配としてではなく、インドネシアを椊民地支配から解放するという立場で、インドネシア国民から大変慕われたといいます。一応この物語では、島村中将と言う吊前になっていましたが、多分今村中将がモデルになっていると思います。今村均も、満州での石原莞爾も、もちろん開祖もそうだったように、人の犠牲の上に自分たちが繁栄しようとせず、人と協調融和してやっていこうと考え実践した人々は、当時の日本の傲慢な政策の中にあっても、現地の人たちに慕われ尊敬されて、素晴らしい人間関係を築くことができました。
 一方、東条英機に代表されるような、天皇と自分との関係にだけしか興味を持たないような、自己中心的な人間に対しては、やはり憎しみや恨みを持つ人が多いようです。まさに、「全ては人の質にある《のです。開祖は、「半ばは他人の幸せを《と言ったのであり、「半ばは相手の幸せを《とは言っていません。自分だけの、あるいは自分たちだけの限られた世界だけの幸せではなく、広く偏りなく世界を優しく正しく見つめる目を持ちたいですね。私たちは、開祖が歩まれた時代を深く勉強して、二度と戦争を起こさないように、また日本人が尊敬される民族になれるように、自分自身の質を磨き続けなければならないと思います。門下生の皆さんには、これを機会に、昭和史をもう一度勉強しなおしてもらえれば何よりです。

以上

 なお、このWEBサイトは、当道院平泉雅章拳士の企画製作により運営されています。この場を借りて感謝を申し述べます。

(宗)金剛禅総本山少林寺大館三ノ丸道院

道院長   小 林 佳 久

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