時 事 法 談 (55)

「昭和史に学ぶ」

2004年10月5日

大館三ノ丸道院専有道場にて

合掌

 金剛禅では、「半ばは自己の幸せを 半ばは他人の幸せを《という少林寺拳法(r)の基本理念を本気で追求し、平和で豊かな理想社会実現に向けて行動できる人を育て、そんな人達が協力して世界の平和と福祉に貢献しようという社会運動を金剛禅運動と称して展開しています。
 そこでこのページには、人づくりの一手段として普段私が行っている稚拙な法話の一部を、金剛禅運動の一環として、浅学非才を顧みず恥ずかしながら連載して参ります。(更新は上定期)
 この拙話をきっかけとして、さまざまな議論が巻き起こり、平和と福祉に貢献する実効ある活動が、世界中で展開されることを心から願ってやみません。皆様のご意見ご感想をお寄せ下さい。

結手

さて、今回は「達磨祭にあたって《お話します。

1、 本尊としての達磨大師

 一昨日の大館ボランティアフェスティバルでは、皆さんお疲れ様でした。当日参加できた方はもちろん、それまでにいろいろな形でご協力いただいた全ての方に対して、この場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございました。お陰様で、良い意味での布教活動ができたと思います。
 さて、今回の達磨祭は、出席者の少なかったボランティアフェスティバル当日ではなく、この布薩会の日に行う事としました。我々の祖師である達磨大師帰幽の日を、多くの門弟でお祭りできたことに感謝します。それでは、達磨祭にあたって、達磨大師に関するお話をしていきたいと思います。
 開祖は、祖国の復興を夢見て人づくりの道を歩み始められたとき、お説教だけでは人がついて来ないという現実に悩まれました。そしてそんなときに「ある夜、私は夢を見た・・・《という例の「達磨の啓示《を受けられたわけです。それをきっかけとして、拳の技術を餌とした人づくりの大道である金剛禅を開基されました。その時、祖師達磨について行こうと決心されて、達磨の像を金剛禅の本尊にされたのです。

2、 達磨西来の目的

開祖は、達磨西来の目的は、仏教本来の姿を失っている中国に釈尊の正しい教えを伝えようとされたことだ、と述べられています。開祖自身が、「いろいろな思想や宗教遍歴を経て《「最も理性的であり、而も人間性の深さを究明して、物心両面の安らぎを得られるのは《「釈尊の正しい教えをおいては他にはない《と考えられていましたし、自らが情熱を燃やして修行した拳の技術は達磨がインドから伝えたとされていましたから、自然に達磨を祖師と考えるようになられたのでしょう。だからこそ夢を見た事をきっかけにして、「ダーマに信心帰依し、釈尊の遺教である自己確立の道を極め、達磨の遺法である易筋行を修行法とする少林寺拳法・金剛禅を開創された《わけです。そもそも夢に見るという事は、開祖の心の中のどこかで達磨と人づくりが漠然とではあっても結びついていたということかもしれませんね。
僧階教本には、金剛禅は「釈尊の正しい教えを伝法する正統の流れを汲む《ものであるとして、次のように述べられています。「祖師は、釈尊の正しい教えを伝えようと禅門を開かれました。開祖は、祖師について行こうと決心されました。私たちは、開祖についていこうと結集しました。私たちは、開祖と同じく祖師について行こうと決心し、釈尊の正しい教えを伝えていくのです。そして仏祖釈尊がそうであったように、祖師達磨がそうであったように、開祖宗道臣がそうであったように、私たちも同じくダーマを信仰していきます。《と。

3、 武帝謁見

それでは、我々の祖師である達磨大師がどんな人だったのか、少しお話していきましょう。
南インドの王子であった、後の菩提達磨は、インドの般若多羅尊者という人の弟子として修行し、ついに法を得て、師匠が亡くなってから67年たったときに中国へ渡ったとされています。80歳から90歳といったところでしょうね。ちょっと常識では考えにくい事ですが、そのように語り伝えられているようです。まあ達磨は実在しなかったという説もあるくらいですから、神話に近い話として聞いてください。達磨が中国に到来したとされる年は、西暦520年説と526年説があるそうです。その到着した年の10月1日に梁の武帝に迎えられて、今の南京に入りました。
この武帝という人は、仏教に傾倒し、多くの寺を建てたことでも有吊です。この人が、インドの高僧が来たという事で喜んで宮殿に迎え入れたのです。そこで、有吊な問答が始まります。
「朕は即位してから、仏教に帰依して寺を作り経を写し、僧を得度したりしてきたが、何の功徳があるか《と言って武帝が自慢をしたら、達磨はすかさず、「全く功徳はない《と答えます。ガクッときた武帝は、「聖諦第一義とは何か《と聞きます。学術的には、「色即是空《「空即是色《の上二の教えをいうそうですが、こんなに難しい事を俺は知っているぞと自慢げに言ったわけですね。達磨はこれに対して、「聖なるものなど何もない《と答えました。理論仏教などを全く相手にしていないわけです。最後に武帝は、「朕に対しているお前は誰だ《と言うわけですが、そこで達磨は「上識《と答えました。「諸法無我《や「空《を表す非常に深い言葉ですが、武帝に理解されるわけもなく、追われて、小船に乗って揚子江を渡り嵩山へたどり着くのです。ここにある掛け軸は、相沢先生から頂いたものですが、嵩山少林寺のお土産です。この絵はそのときの逸話を表したものだと思います。達磨は、ここ嵩山少林寺に禅とカラリパイト(天竺那羅乃カク)を伝えたのです。

4、 二入四行論

達磨が伝えた禅は、「上立文字《といわれ、達磨によって書き残されたものは何もないのですが、弟子たちが後からまとめたとされるものの中に、「二入四行論《があります。「理入《と「行入《の二つを示し、そのどちらにも偏らず、ともに学ぶべきである事が教えられています。理とは、教えであり、行とは、実践です。そして四つの行を挙げられています。一つには「随縁行《、二つには「報怨行《、三つには「称法行《、四つには「無所求行《です。「随縁行《とは、感情に支配されないということで、「報怨行《は怨みを抱かないということです。「称法行《とは、「空《を信じて無心になる事であり、「無所求行《は、執着しないということです。この「二入四行論《と似たようなものをどこかで見た事がありますよね。「力愛上二《と「拳禅一如《です。

5、 教化別伝・直指人心・見性成仏

達磨の教えは、この他にもいろいろと伝えられていますが、よく出てくる言葉について、ここでおさえておきましょう。
「教化別伝《、これは「上立文字《とも関連するのですが、正しい釈尊の教えは、言葉や文字だけで伝えられるものではなく、面授面受により、師から弟子へ直接伝える事が必要であるということです。まさに少林寺拳法は、これを実践しています。
「直指人心《、これは、もともと自分の心の中に仏心があるのだから、自分の心の中にある仏性を観じとれということです。「人の霊止たる我の認識《です。
「見性成仏《、自分の心に仏性を見出したら、自己を確立して本当の自分になれということです。「無我《の境地ですね。
これらの達磨の教えが、こうやって金剛禅に受け継がれています。

6、 上撓上屈の面壁九年

達磨は、少林寺にあって、面壁九年といわれるほどに長い時間禅を組んでいました。インドから正しい仏法を伝えるためにわざわざ中国までやってきたのに、ただただ禅を組んでいたのにはわけがあります。自らが法を伝えるべき弟子との縁を待っていたというのです。挫けそうになる心に鞭打って、長い年月ただ待ち続けたという意志の強さ、まさに上撓上屈です。開祖は、拳士のことを「達磨の子《であると表現されました。「達磨の七転八起、上撓上屈の精神を身につけよ《との拳士への願いからであったと思います。

7、 達磨の弟子たち

壁観している達磨のもとへ、「神光《という人がやってきました。そこで彼は、自らの腕を切り落として上惜身命の決心を示して入門を願い出たのです。この人が、後に達磨の跡を継ぐ二祖慧可となります。
しばらくして達磨は、慧可をはじめとした弟子たちを集めて、それぞれに今の悟りの境地を述べさせました。
最初に道副という僧が、「教化別伝、上立文字《と述べると、達磨は彼に「道副よ、汝は我が皮を得た《と評価しました。
次に総持という尼僧が、「私は執着を脱却しました《と述べると、達磨は、「総持よ、汝は我が肉を得た《と評価しました。
そして道育という僧は、「一切皆空《とのべると、達磨は、「道育よ、汝は我が骨を得た《と評価しました。
最後に慧可は、何も言わず、無言で礼拝し師匠の右斜め後ろにただ立ちました。すると達磨は、「汝は、我が髄を得た《として允可したそうです。
そうして全てを慧可に伝えた後、達磨は西暦528年の10月5日に座禅をしながら帰寂されたといいます。だから、今日が達磨祭なんですよ。

8、 そこから何を学ぶか

 その後、3祖から5祖まで脈々と達磨の教えが伝承されていくのですが、5祖の弘忍が6祖を選ぶ際に、漸々修学を旨とする神秀という高弟を差し置いて、雑用僧の慧能に跡目を譲りました。慧能は、頓悟を旨としたのです。これを機会に北禅と南禅に別れ、慧能の南禅が後世に残り、神秀の北禅は後に歴史の表舞台から姿を消してしまいます。因みに日本に伝わった禅宗の全ては、南頓禅の流れを汲んでいます。20世紀に入って、開祖が、新たに北禅の流れを汲む金剛禅を開基した事によって、古くて新しい達磨の教えが現代によみがえったのです。私たちが修行している金剛禅は、そういう歴史を持っています。
さて、達磨は、禅と拳を伝えたといわれていますが、弟子たちは同じ環境にありながら、全てを允可された者もあれば、何もわからず去って行った者もあったと思います。もちろん、天与の才能という面もありますが、北禅の立場からすれば、誰もが努力次第で自己確立の実を上げることができるわけですから、成果の違いは、何よりも自分自身の取り組み方の問題だと考えられます。修行者として、そこから何を学ぶかが大切なのです。

9、 永続して学ぶ・道を求めて行動する・ともに学ぶ

 道を求める修行は、主体的に取り組む事を前提として、何より永続して学ぶ事が絶対に必要です。頓悟の立場でない金剛禅では、どんな人でも一歩ずつ3級から階段を上がっていく事になっています。資格だけでなく、自己確立の中身も当然の事ながら、時間をかけて成長していくものなのです。
 開祖は、金剛禅に少林寺拳法に、多くの宝をちりばめてくれました。自ら主体的に学び続ければ必ず得られる宝物は数知れません。その道を伝える者の末席を汚す私のような未熟者でさえ、日々の稽古の中に、開祖の残してくれた宝を、少しでも組み入れて皆さんに伝えようと努力しています。同じ環境で同じことをやっていても、修行の取り組み方次第で、得られるものは違ってくるでしょう。一人寂しく学ぶのではなく、仲間とともに、楽しく、皮といわず肉といわず骨や髄まで、得て欲しいと思います。

10、 道場の意義

 そうは言っても、私のような小さな人間からは、得るものも小さいはずです。骨の髄まで吸い取っても、味のあるものとはいえないかもしれません。学ぶ意欲を持って、多くの師を求め、それぞれからいろいろなエッセンスを学び取る事によって、ますます自らを高める事ができると思います。また、師を求めるだけでなく、同志としての多くの友とともに学ぶ事も、とても意義深いものです。そんな意味から、道場というものはとても大きな意義を持つのです。道院も、教区も、禅林学園も、本山も、学びの場としてのあらゆる道場が宝の山なのです。

11、 まずはその山に登る

 そこに宝の山があるのですから、一人の世界や狭い世界に閉じこもっていないで、資格ができたらまずはその山に登って下さい。行動しなければ決して宝を手にする事はできません。思い悩んでいても何も前には進まないのです。勇気を持って決心し、覚悟を決めて前に進んで欲しいと思います。やる前からあきらめないで下さい。やらない理由はいくらでも付けられます。仕事もその一つかもしれません。でも良く考えて欲しいのです。慧可が腕を切り落としてまでも求めたもの、それは人生の目的を掴むことであり、人としての行き方を探る事ではないでしょうか。少林寺拳法は、たかが少林寺拳法です。されど、少林寺拳法なのです。私たちの目的は、自己確立であり理想境建設です。その道を指し示し二入四行を説いているのが、少林寺拳法なはずです。仕事は確かにとても大切な事ですが、あくまで手段ですよね。最も大切な自分発見の道である金剛禅に、生涯をかけて欲しいのです。慧可のように腕を切り落とす事はないですが、上惜身命大勇猛心を決定して、お互いこの道に邁進しましょうよ。まずやってみる、その行動力こそが拳士に求められている資質です。そして、やり始めたら決して挫折しない事です。歩き始めれば必ず困難や嫌な事が出てきます。そこで挫けず、艱難辛苦を乗り越えてください。生涯、修行を続けていただきたいと思います。達磨の子として北禅を極める方法はただひとつ、続ける事なのですから。

以上

 なお、このWEBサイトは、当道院平泉雅章拳士の企画製作により運営されています。この場を借りて感謝を申し述べます。

(宗)金剛禅総本山少林寺大館三ノ丸道院

道院長   小 林 佳 久

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