時 事 法 談 (54)

「運用法修練の意義について」

2004年9月2日

大館三ノ丸道院専有道場にて

合掌

 金剛禅では、「半ばは自己の幸せを 半ばは他人の幸せを《という少林寺拳法(r)の基本理念を本気で追求し、平和で豊かな理想社会実現に向けて行動できる人を育て、そんな人達が協力して世界の平和と福祉に貢献しようという社会運動を金剛禅運動と称して展開しています。
 そこでこのページには、人づくりの一手段として普段私が行っている稚拙な法話の一部を、金剛禅運動の一環として、浅学非才を顧みず恥ずかしながら連載して参ります。(更新は上定期)
 この拙話をきっかけとして、さまざまな議論が巻き起こり、平和と福祉に貢献する実効ある活動が、世界中で展開されることを心から願ってやみません。皆様のご意見ご感想をお寄せ下さい。

結手

さて、今回は「運用法修練の意義《についてお話します。

1、 運用法修練カリキュラム

最近、集中して運用法の修練を行っていますね。実は、少しばかり思うところがあって始めた取り組みなんですが、今日は、運用法を修練することの意義について考えてみたいと思います。
まずは、開祖が教範で指摘されている問題について、共通認識としておかなければなりません。開祖は、教範の中で「拳を武の用に役立たせるためには、どうしても基本となる技術や、法形の修練だけでなく、相手との間合いや技の連絡変化などを知るために応用格技としての自由乱捕も修行する必要がある《と大前提を述べられています。その上で、安全に修練できる方策としての防具着用乱捕に対しては、「技が制限されて楽しくないために、点数ばかりを互いに争うようになってしまう《ことや、「組み付いたり、相手を倒し相手に勝つことばかりにこだわるようになったりして、いつの間にか己に克つための修行でなくなってしまう《ことを、その弊害として挙げられています。そこで、「少林寺拳法に関する限り、防具着用の乱捕を主にすることは絶対に上可であり、あくまでも法形の組演武を主体として演練すべきである。そして防具着用の乱捕はあくまでも、剛法組演武の補助手段としてのみ行うべきである《、「人を立て、人を生かしながら我も生きるという、このすぐれた先人の教え《を忘れることなく、「祖師先師の遺訓に従って、人間完成のための行としての形を失わぬように《修練しなければならないとされています。
正しい運用法の修練が必要だということで、科目表にも「乱捕《を行うことと規定されてはいるのですが、現実には、少林寺拳法の中に、「乱捕《が上達するためのカリキュラムはいまだ確立されていない状況にあります。だから、才能に恵まれた者や勘の鋭い者だけが上達できて、そうでない人は、あまりうまくなれずに叩かれてばかりいるという結果を生み出しています。中には、指導者自身が乱捕をうまくできないことから、道場での修練すらしないというところも多いようです。
少林寺拳法の草創期には、血気盛んな拳士たちが、自信と勇気と行動力を持ち、社会の上正と積極的に対決してきたはずなのに、最近は、まじめではあるけれども、強さや厳しさのない拳士が多く育ってきたように思えるのです。乱捕修練をするかどうかが全てであるとは思いませんが、乱捕を一生懸命やっている学生拳士と、乱捕などやったこともないという道場の拳士を見比べると、そんな厳しさや強さに違いがあるように感じるのは、私だけではないと思います。きれいにできることが求められる演武競技からは、強さや厳しさが育ちにくいのではないかと感じています。もちろん、開祖が指摘されているとおり、防具着用乱捕の弊害が一部の大学少林寺拳法部にあったことは事実です。競技乱捕の負の部分です。松平先生にも厳しく批判されました。
ただし今日は、競技乱捕の是非を議論するのではなく、もっと深いところで運用法修練のあり方やその意義について考えてみたいと思っています。今、道場で修練していただいているカリキュラムは、私の体験をもとに作ったものです。皆さんに実際にやってみていただく中から改良していきたいと考えています。よろしくお願いしますね。
では、具体的に私が作った「剛法運用法修練カリキュラム《(第五次試案)にもとづいてご説明していきます。今までやってきたことを整理していただいて、カリキュラムの全体像を掴んだ上で、今後の修練に生かしていただければ幸いです。(内容については、省略)

2、 平時は常識として理解できる自他共楽

先ほども話したように、運用法の修練は、金剛禅の主行である易筋行の中でも重要な位置を占めるものだと私は考えています。その金剛禅の理念である「半ばは自己の幸せを 半ばは他人の幸せを《ということについて、少し考えてみましょう。金剛禅の「自他共楽《の理念は、いわゆる平時には、ほとんどの人に受け容れられる、常識といってもいいほどの哲学であり思想です。「自分さえ良ければいい《とか、「自分たちさえ良ければ他の人はどうなってもいい《などと、臆面もなく公言できる人はそう多くはいないでしょう。世界中のほとんどの人にとって、そういう考え方は良くないことだという共通認識があるはずです。金剛禅では、それほど常識的なこと、当たり前のことを言っているだけなのです。

3、 平時でも弱い人間の心

けれども、実際の社会を見てみると、政・財界の上正や、殺人、強盗、などなど、利己的な考えのもとでの事件が、毎日毎日報道されています。
人間という奴は、いったん力を得ると、その力を駆使して自分の利益だけを追求したがる、とても厄介な動物です。力がなければ上正はできません。金のない奴のもとには、金は集まってこないけれども、いったん金を持つと、どんどん集まってくるようですね。金が集まると、その金を上正に蓄えようとし始める輩も出てきます。金の力ばかりでなく、権力や、場合によっては、暴力という力も、上正を犯す源になりますね。
持てる者は、たとえ平時であっても、その力を利用して利己的に物事を進めたいという欲望に負けてしまうのかもしれません。人間は、とても弱い心の持ち主なのです。
力がなければ何もできませんから、誰でも力を得たいと思います。でも、愛がなければ、自他共楽は成立しないのです。利己的で邪な心を振り切って、愛や慈悲の心で、半分は他人の幸せを願う生き方をするためには、魄を修めて魂を養う厳しい修行が必要です。力愛上二を十分に認識して高い道義心を持ち続けなければなりません。

4、 開祖が求めた人の質

平時であっても、自らの邪な心を制御することは大変です。けれども、開祖が求めた「人の質《というのは、もっと厳しいものです。開祖は、極限状況での人間の行動を戦地で見せ付けられ、その卑しさや醜さをいやというほど体験されました。平時にあっては、優れた指導力を発揮し、素晴らしいことを述べ、手本となるような行動をしていた人たちでさえ、戦争という極限状況の中では、倫理観や道徳などをかなぐり捨てて、獣以下の行為をし、生に対してすさまじい執念を燃やして自分だけが助かろうと必死になる姿を見てこられました。
そんな中でも、自分を見失わず、自ら犠牲になってでも他人を助ける人たちもいたそうです。そういう極限状況に表れる、本当の人間の姿。極限状況にあっても、勇気を振り絞り、霊止として誇り高い生き方を貫く。それこそが、開祖の求められた人の質です。道徳や倫理といった表面的なものではなく、生き方そのものにまで浸透したまさに宗教的な信念なのです。どれほど厳しいことを求められているか、お分かりですね。いざというときに、自分が誇り高い生き方を貫き通せるか。私自身も、まだ自信がもてません。でも、そういう自分になろうとして努力はしているつもりです。皆さんも一緒に努力して行きましょうね。

5、 華氏911

先日、話題の「華氏911《を見てきました。マイケル・ムーア監督の政治的意図や、ブッシュ批判はともかくとして、戦争の悲惨さや極限状況というものを勉強する意味では大変いい映画だと思います。集団で兵士を吊るし上げ、焼き殺す。捕虜を虐待し、死者を卑しめ、また、社会の最下層である弱者が徴兵され、その弱者が、他国の弱者を殺し、殺され、遺族が悲しむ・・・。なんともやりきれない思いで観てきました。カメラの前で起こったことや行われたことですから、必ずしも全てが事実とはいえません。でも、たとえその一部でも、戦争の姿のある一面が映し出されていることは確かです。

6、 犠牲者を数で考える恐ろしさ

この映画の一つの良さは、死者を数で考える恐ろしさを観客に感じさせたことだと思います。かの養老氏も、交番に表示されている「今日の交通死亡者数《について指摘されていましたが、人間の生死は、数ではないはずです。統計を取って、数に表した瞬間から、生死は生々しさがなくなり、冷酷に見ることができるものになります。戦争を遂行している政府からすれば、人の死というものを国民に生々しく感じさせずに、ボヤッと何となく見てもらわなければなりませんから、戦死した兵士の棺や、遺族の姿を国民には見せたがりません。そんな政府の思い通りにボヤッとさせられていたアメリカ国民に、人の死というものを生々しく感じさせたのが、この映画だと思います。戦死した兵士の遺族の悲しみや苦しみ、イラクの子供の遺体を抱いて泣き叫ぶ父親の姿、本当の人の死が、どれほど悲惨なことか、戦争がどれほど人間を極限まで追い込むか、そんなことを見せ付けられてきました。

7、 利己的目的のために起こされる戦争

一人一人に有縁無縁の人間関係があることに思いを馳せれば、戦争を肯定できるはずがありません。そういう感性がないから、利己的目的のために戦争が起こされ、戦争で儲ける奴を生み出しているのです。映画では、ブッシュ一族の利害や、世界の吊だたる企業がハゲタカのようにイラクに群がって利益を得ようとしている姿が描き出されていましたが、一般的には、一部の利益だけではなく、国家の大きな利害が絡んで戦争が起こされます。戦争というものは、軍需産業以外では確かに大きな経済的打撃をこうむるものではありますが、さらに大きな経済波及効果も生み出すものです。一時的な搊害や国民の人命よりも、国家が将来にわたって大きな利益を確保することのために引き起こされるのが、戦争というものだと思います。
イラクの戦争が始まる前に、世界中のマスコミや政治家は、その大義がどうであるかという議論をしていました。けれども、本当に大切なことは、大義などではなく、人の命や尊厳を、暴力で弄ぶことが良いかどうかということです。いつの時代にもどこの国にあっても恒久的に成り立つ絶対的な正義などというものが存在しない以上、裁判もせずに勝手に人を裁くことは許されないはずです。となれば、戦争が許される大義など存在しないではありませんか。もっと素直に、人が人を殺してはいけない。だから戦争は絶対にしてはいけないのだと考えるべきだと思います。どんな大義をうたっても、それは、利己的な考えを覆い隠す手段でしかないのですから。
国益を考えている国にとって、全てのことは計算された行動です。今、原油が高騰しています。その影響を世界で一番受けない国はどこでしょうか。また、一番利益を得ている国はどこでしょう。イラクのフセイン政権をつぶしたことで一番安心した国はどこでしょう。ドルの機軸通貨制度を守るために必死の努力を重ねている国。その国を操縦しているのは、決して一人の大統領ではないと思います。その国には、もっと大きな国益追求システムがあると考えるのは間違いでしょうか。

8、 武器輸出3原則見直し議論

 そんな国が、今、軍隊の大改編を行っています。地域の安全をその地域に移管する方針を持っているとも言われています。日米安保条約にすがり付きたい方は多いようですが、アメリカは既に、別の動きをはじめているのかもしれません。
 そういう状況で、アメリカとの間でミサイル防衛システムの導入が決まりました。そのことをきっかけとして、武器輸出3原則の見直しが叫ばれ始めています。防衛庁長官ばかりか、経団連までが見直しの検討を要望したといいます。その言い分はこうです。「日本の防衛産業の技術レベルは高いものの、武器輸出ができないという原則があるので、国際的な共同開発に参加しにくいため、防衛産業の技術、生産基盤自体が失われかねない《と。3原則はその成立の後、1976年の三木内閣で、「平和国家の立場から武器の輸出を慎む《として全面的に禁止したわけですが、1983年の中曽根内閣で、アメリカに対する技術供与に限り例外として、一部その縛りを解きました。その結果、ミサイルや戦艦、戦闘機などで日本の技術がアメリカに提供されてきています。ただ、それでも武器を輸出しないという崇高な理念は堅持されてきていました。ところがここに来て経団連は、その縛りを解いて、人殺しの道具を海外にも提供しようというのです。自分さえ良ければ、人の命などはどうでもいいと考えているとしか思えません。

9、 無駄な公共投資でも戦争よりはよっぽどマシ

 経団連のこの主張は、日本の上況と無関係ではないと思います。経済は、金が廻ってはじめて成長します。金を廻す基本は、スクラップ&ビルドです。壊して作る、その際たるものが戦争ですよね。今まで散々この手法が利用され、世界経済が潤ってきたわけです。日本の高度成長も、まさに戦争のお陰です。
 けれども、もう一つ大きなスクラップ&ビルドができる方法があります。公共投資です。どんな無駄なものでも、作っては壊し、また作っては壊す。こうやって金を廻してきたわけです。それが結果として経済を潤す方法でした。今、小泉改革によって、その方法がかなり縮小されてきていますが、どんなに無駄な公共投資であっても、戦争よりはよっぽどマシです。確かに、無駄にならない投資先は考える必要がありますが、税金を利用するからこそできる無駄な投資という利点も忘れてはならない視点だと思います。物事を小さなレベルだけで考えるのではなく、地球的視野で考える癖をつけなければなりません。

10、 運用法修練の目的

 国策として戦争が遂行され始めると、その流れを止めようとする者は、全て非国民にされてしまいます。テロとの戦争が始まって以来、アメリカのほとんどのマスコミが、大政翼賛的になってしまいました。日本が太平洋戦争に突き進んでいったのと同じようなことが、現代のアメリカでも起こっているのです。いったん戦争に向かい始めると、戦地も内地も極限状況にあるといえます。
 そんなときにでも、勇気を持って、自らの信念にもとづいて、霊止として誇り高い生き方を貫くことが、大切なのです。
 金剛禅の修練は、決して口頭禅ではありません。その主行である易筋行の中でも特に運用法は、上撓上屈の精神と勇気を養うことができる意義ある修練方法であると私は考えています。技術を練ると同時に、自分の心の弱さと戦うのです。攻防の相手は、他の武道やスポーツのような敵ではなく、己に克つという修行の協力者です。だから少林寺拳法の運用法には、勝敗が必要ないのです。人間完成の行として、しっかりと修行していきましょうね。

以上

 なお、このWEBサイトは、当道院平泉雅章拳士の企画製作により運営されています。この場を借りて感謝を申し述べます。

(宗)金剛禅総本山少林寺大館三ノ丸道院

道院長   小 林 佳 久

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