時 事 法 談 (53)

「運用法修練の意義について」

2004年8月3日

大館三ノ丸道院専有道場にて

合掌

 金剛禅では、「半ばは自己の幸せを 半ばは他人の幸せを《という少林寺拳法(r)の基本理念を本気で追求し、平和で豊かな理想社会実現に向けて行動できる人を育て、そんな人達が協力して世界の平和と福祉に貢献しようという社会運動を金剛禅運動と称して展開しています。
 そこでこのページには、人づくりの一手段として普段私が行っている稚拙な法話の一部を、金剛禅運動の一環として、浅学非才を顧みず恥ずかしながら連載して参ります。(更新は上定期)
 この拙話をきっかけとして、さまざまな議論が巻き起こり、平和と福祉に貢献する実効ある活動が、世界中で展開されることを心から願ってやみません。皆様のご意見ご感想をお寄せ下さい。

結手

さて、今回は「娑婆に生きる《ということについてお話します。

1、 選挙考察

参議院議員選挙が終わりました。小選挙区制になったときから、二大政党制への流れが確定したわけですが、今回の選挙でそれがはっきり表れてきました。日本人の民族性から、私自身は二大政党制に諸手をあげて賛成ではありませんが、もう後には戻りませんね。というのも、AかBかというよりも、文殊の智慧ではないですが、いろいろな意見がある中で、調和させていく議論のほうが、日本人的な気がしていましたので、共産や社民のような全く違う意見があることも大切だと思っているのです。まあいずれにしても、いつでも政権を交代しうる二つの政党が、競って良いものを作っていって欲しいと願うばかりですね。
唯一つ心配なのは、ある一つの宗教団体がこの国のキャスティングボートを握っているということです。今のところ大きな動きはありませんが、十分に注意していなければなりません。

2、 新潟と福井の水害

新潟と福井の水害は、大変な被害になってしまいました。今月はじめまで、自治体が中心となってボランティアを受け容れ、泥の排出作業などに取り組まれていたようです。大きな被害を受けた方々には、今後も多方面からのバックアップが必要だと思います。少林寺拳法連盟でも、新潟県少林寺拳法連盟と福井県少林寺拳法連盟を窓口に募金活動を開始したようです。それぞれが、できる範囲で何らかのお手伝いをしていきたいですね。

3、 いろいろな価値観・人生観

今回の被災地へボランティアとして急行された方が数多くいらっしゃいました。他人のために尽くすという崇高な価値観や人生観を持っていらっしゃるのだと思います。
それに対して、自分さえ良ければいいという考え方の人もいますね。最近の事件を見ると悲しくなってきます。
また、中には、人に迷惑をかけないことに意義を見出す人もいます。家庭の中で、「せめて人様に迷惑をかけないで欲しい《と。
けれども子供たちは、たとえば、タバコを吸っても、売春をしても、他人に迷惑をかけていないのだからいいじゃないかと言う理屈をこねます。「せめて人様に迷惑をかけないように《と子供を教育している、親の教育成果が出たと言えなくもありませんが、皆さんは、このことをどう考えますか。
実際には、他人に何の迷惑もかけずに生きることなどできるものではありません。誰かのお陰で今ここにいられるわけです。他人との関係なしに生きている仙人でもない限り、いや、仙人といえども、大切な酸素を吸って二酸化炭素を排出しているわけですし、山の実りを自らの血肉と変えているわけですから、人に迷惑をかけていますね。
まあ、その理屈はさておいても、人に迷惑をかけないということを行動の基準にしてしまうことは、大きな間違いです。

4、 金剛禅の価値観(まずは自分 その上で他人)

金剛禅では、いうまでもなく「半ばは自己の幸せを 半ばは他人の幸せを《の理念を行動の基準にしています。まずは自分の幸せであり、自分を一番に大切にすると言う教えです。タバコを吸うことも、売春をすることも、自分を大切にしていることにはなりません。他人に迷惑をかけるかどうかよりも、自分を大切にしているかどうかが、まず何にも増して重要なのです。自分が大切だから、同じように大切な自分を生きている他人も大切にしようという教えですね。「他人に迷惑をかけないように《などというくだらない教育が広がっている今の時代、「とにかく何よりも自分を大切にする《という価値観や人生観を社会に広めていくことの大切さをつくづく感じています。

5、 一切皆苦・諸行無常

では、自分を大切にするということについて、もう少し考えてみましょう。
人間は誰でも、自分の意思とは関係なく生まれてきます。そして生まれたときから既にこの世の中は、苦しみにあふれ悩みに満ちています。仏教では、一切皆苦といいますが、生老病死、愛別離苦、怨憎会苦、求上得苦、五蘊盛苦のつまりは四苦八苦に囲まれているのです。人生は生まれたままでは苦悩そのものなのです。しかも諸行無常です。今が良くてもすぐに悪くなるかもしれません。なんと人生は苦しいのでしょうか。

6、 娑婆

 「娑婆《という言葉があります。これは、インドの言葉「サハー《の音訳だと言われていますが、忍耐を強いられるところと言う意味です。つまりこの世は、耐え忍ばなければならないところなのです。

7、 怠惰に生きると「我慢《

 その忍土にあって、自ら何も努力をしないで生まれたままに生きていると、「我慢《が生じます。最近、国語の使い方に間違いが多くなったと指摘されていましたが、この我慢という言葉も、仏教用語では、耐え忍ぶと言う意味はありません。自慢やわがままという意味で、我を押し通そうとする心を言います。
 「あれが欲しい《、「あれをしたい《、「辛いことはしたくない《、「楽をして良い思いをしたい《、・・・。そういう欲そのものです。
 そういう欲にまみれている人は、何をするにも直感的です。獣のように、食べたくなれば食べ、気持ちの赴くままにやりたい放題、考えることなく反射的な行動をとるものです。こういうよこしまな心を魄といいます。本能的な、動物的な脳の働きです。
 結局そういう生き方は、「流されて生きる《ことになります。

8、 辛抱して修行すると「(諸法)無我《

 それに対して、忍土を自らの修行によって乗り越えようとする生き方、つまりは、辛いことを耐え忍び、辛抱をして、修行に励むと、「無我《の境地がわかってきます。おごり高ぶり我を押し通すのではなく、自分の欲を浄化して、人間だけが持つ理性的な脳であり良い心である魂によって司った生活を目指すとき、自分のちっぽけな存在に気づくのです。自分だと思ったものが実は自分ではない、自分だけで成り立つ永遠の存在などは何もない。我でないものを我と思わない。だから、我が我がと自分を押し通さず、物事を素直に見つめます。すると、物事の本質つまりは、ダーマを感じるのです。

9、 「人の霊止たる我《

 ダーマを感じると、自分と言う存在が、実はダーマの分霊を身に受けた優れた存在であることに気づきます。その分霊は磨かずに怠惰な生活を続けていると、結果的に流されて生きることになり、決して光ることはありませんが、忍土に耐え辛抱して修行を続けることによって、どこまでも可能性を広げることができます。ダーマを灯火とし、自分自身を灯火とすることで、この忍土を力強く生きる力が生まれてくるのです。これに気づくことを、「人の霊止たる我の認識《と言います。本当の我とはダーマなのです。
 私たちは、ダーマの分霊を身に受けた優れた人間であることに気がつきました。でも、その分霊を自ら磨くか磨かないかによって、そこにある「我《は大きく変わります。我でないものを我だと思う、そんな人間では、決して霊性は光りません。我慢が頭をもたげてきますね。本当に頼りにできる自己を確立することで、「人の霊止たる本物の我《になれるのです。それこそが無我なのです。
 話がそれますが、今までの話はあくまで自分自身のことです。「半ばは他人の幸せを《と言うときの他人に対しては、その霊性を磨いているかどうかに関わらず、全ての人の霊性を拝みます。こいつはまじめに修行しているから素晴らしいとか、怠惰な生活を送っているからどうしようもないとか、そういうことではなくて、その人自身、その人の命や尊厳、あるいはダーマに対して素直に拝み、その人の幸せを願うのです。自分自身については、厳しく辛抱して修行することを自らに課しますが、他人に対してはそんなことは関係ありませんので、誤解しないでくださいね。一人一人、どんな人間であっても、存在そのものが素晴らしいのです。

10、 魄を修めて魂を養う

 話を元に戻しましょう。自分自身のこと、自己確立のことです。人間は、情けないほど弱くてちっぽけで、わがままな存在です。そんなよこしまな心である魄を修めて、ダーマつまり魂を養う、それこそが修行なのです。
 この修行は、物事に反射的に反応し行動してしまう自分を省みて、脚下照顧、反省し、考え直して正しい行動に修正していく作業です。魂で考えられた正しい行動を積み重ね、いつか、何も考えなくとも正しい行動がとれるようにしていく道です。
 易筋行でも、まずやってみる。そしてうまくいかなかったところを反省し修正すると、うまくいくようになる。それを繰り返し身体に刷り込んで反射的に動けるようにしていくことで、はじめて使える技術になります。
 開祖は、極限状況の中で正しい行動をとることができるかどうかは人の質にかかっていると説かれました。自らの質を高め、極限状況にあっても、メッキをはがさずに正しい行動をとり続けられるように修行していくこと、つまりは、よこしまな心に支配されて反射的に行動するのではなく、何も考えなくとも反射的にダーマにもとづいた正しい行動がとれるように、普段から行動を通した自己確立の修行に励むことが大切なのです。

11、 「流されて生きる《から「生かされて生きる《へ(涅槃寂静)

 動物的な反射的反応的行動からは、苦悩が多く、流されて生きる生き方に終始してしまいますが、ダーマにもとづいて正しくなされる行動が、反射的レベルにまで高められていくと、生かされて生きる生き方が身につきます。ダーマの分霊を身に受けた優れた人間として生まれたことに感謝し、使命感を持って、世のため人のために奉仕してこの世に理想の楽土を建設する。そんな生き方を身につけましょう。
 金剛禅では、自分自身の安心立命を最終目的にしていません。私たちの目的は、あくまで、平和で豊かな理想の社会を作ることです。紊得づくで同志を増やし多くの人と調和を図りながら、平和的手段で理想境を作るのです。政治の世界にも注意を払いながら、理想境建設に向けて、それぞれがそれぞれの立場で、自分たちなりの努力をしていきましょう。安易な生き方に流されず、涅槃寂静を目指して、娑婆を辛抱し修行し続けましょうね。

以上

 なお、このWEBサイトは、当道院平泉雅章拳士の企画製作により運営されています。この場を借りて感謝を申し述べます。

(宗)金剛禅総本山少林寺大館三ノ丸道院

道院長   小 林 佳 久

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