時 事 法 談 (51)

「テーマを持って修行しよう」

2004年6月1日

大館三ノ丸道院専有道場にて

合掌

 金剛禅では、「半ばは自己の幸せを 半ばは他人の幸せを《という少林寺拳法(r)の基本理念を本気で追求し、平和で豊かな理想社会実現に向けて行動できる人を育て、そんな人達が協力して世界の平和と福祉に貢献しようという社会運動を金剛禅運動と称して展開しています。
 そこでこのページには、人づくりの一手段として普段私が行っている稚拙な法話の一部を、金剛禅運動の一環として、浅学非才を顧みず恥ずかしながら連載して参ります。(更新は上定期)
 この拙話をきっかけとして、さまざまな議論が巻き起こり、平和と福祉に貢献する実効ある活動が、世界中で展開されることを心から願ってやみません。皆様のご意見ご感想をお寄せ下さい。

結手

 さて、今回は「テーマを持って修行するということについて《お話します。

1、 「開祖デー《の総括

皆さん、先日の「開祖デー《ではいろいろとありがとうございました。今回は、少年拳士に的を絞り、「普段は親からいろいろな物を与えられたりいろいろとしてもらったりすることによって感じる喜びがほとんどである子供たちに、他人に「させていただく《、「して差し上げる《ということを体験させ、奉仕の喜びや感謝される喜びを体感する機会《を作ったわけです。体験の場としての対象は少年拳士でしたが、一般拳士の皆さんも、それぞれに様々なことを感じていただけたのではないかと思います。特に、他人を慈しむことによってはじめて成り立つ奉仕の精神、ここに思いをいたしてもらえたとしたら、何よりの成功だと考えています。「自他共楽《とは、ただ他人の幸せをボーっと思うのではなく、他人を慈しむことから自然にわきだす深い思いであるはずです。愛や慈悲を抜きにして、本当の意味で他人の幸せを願うことなどできないと、最近私は特に考えるようになりました。愛する思いから湧き出す奉仕こそが、心のこもった行動といえるのではないでしょうか。「力愛上二《や「自他共楽《、じっくりと深く認識したいですね。

2、 新聞記事に見るスポ少の入団式

5月24日付の北鹿新聞に、今回の開祖デーの記事と上下に並んで、たまたま大館市スポーツ少年団の本部合同入団式が行われたという記事が掲載されていました。
開祖デーの記事では、「少年拳士がホテルマンに・・・父母らに料理も振舞う《と題して、「奉仕と感謝の喜びを体感しよう・・・《と報道されていましたが、お隣のスポ少は、「強いからだと心を育てます《と題して、「・・・健康な身体と心を育てることを誓った。《、「団員の代表がスポーツ少年団団員綱領を朗読し、スポーツの喜びを学び、友情と協力を大切にします。《とか、「市教育長は、1年間の活動を通して心も身体も一層たくましくなって欲しい《、「市体育協会の会長は、スポーツの上達を目指すだけでなく、強い心を育ててとそれぞれ団員を激励《と書かれています。面白いほど対照的な記事ですよね。もちろん、「活動を通してたくさんの仲間を作り、思いやりと励ましの心を養って欲しい《と本部長が述べられたと書かれていますし、スポ少の綱領には、「友情と協力《、あるいは「仲間とともに世界の平和を築く・・・《などとも記載されていますので、ただ単に「強いからだと心《を育てるというだけでなく、「優しい心《という面にも目を向け、社会に役立つ人づくりということにも取り組んでいらっしゃると思います。けれども、勝負至上主義の指導者が多いと言う現実もあるわけですから、一般にスポーツの持つ最も大きな教育的側面は、この「強いからだと心《ということになるのではないでしょうか。

3、 スポーツと少林寺拳法の違い

スポーツでは、究極の目的である「勝つ《ということに向けてトレーニングをしていく中から、多くのことを学べますね。「勝つ《という目的に照らし合わせたとき、「強いからだと心《は必要条件ですから、当然それを養うことが重要になります。他にも、フェアプレーの精神や協調性など、数え上げればきりがないほど、スポーツの教育的側面は見えてきます。
では、少林寺拳法はどうでしょうか。一番大きな違いは、その目的にあります。スポーツの目的が「勝つ《ことであるならば、少林寺拳法の目的は、言わずと知れた、「人づくりによる理想境建設《ですね。スポ少の指導者綱領には、少林寺拳法と同じく「世界の平和を築くために努力します《としっかり謳われているのですが、一般的なスポーツの世界を見ると、そこではやはり勝つということが目的となっているのではないでしょうか。そんなスポーツの世界では、勝つというその目的に向かってエクササイズしていく中で、様々な人間としての成長が見られるとしても、あるいは世界平和に向けて努力する人が現れたとしても、それは付随的な効果です。それに対して少林寺拳法では、最初から、平和で豊かな社会を作るリーダーになるために修練をします。そのための教育システムが少林寺拳法にはきちっと存在し、システマティックに人づくりを行っているのです。スポーツでは、結果的に人間性が育たなくともチャンピオンになることはできるかもしれませんが、少林寺拳法では、自己確立と自他共楽を目指さない限り、正しい教育を受けている拳士とはいえないのです。
ただ、ここでの違いは、どちらが良いとか、どちらが上だとかいうものではありません。在り方や目的が違うものを同じ土俵に並べて、比べることはできないという話なのです。スポーツはスポーツであり、少林寺拳法は少林寺拳法だということです。自分という同じ人間が、あるときはスポーツを楽しむし、旅行もする。勉強もするし、仕事もする。そんな自分は、生涯修行として少林寺拳法に取り組んでいるんだということです。

4、 強いからだと心

間違ってもらっては困るので、少し補足しましょう。少林寺拳法の目的は、確かに拳士が自己確立と自他共楽を目指すリーダーになって理想境建設に邁進しようというものであり、勝負に勝つことを目的とはしていませんが、「勝ち負けはどうでも良い《と考えているわけではありません。少林寺拳法の拳士は、どんなことがあっても、決して負けない自信や強さを身につけなければなりませんよ。決してあきらめることなくどんなことにも屈しない「強いからだと心《は、少林寺拳法でも絶対に身につけなければならない大きな目標ですし、本当の強さは、護身の技術を真剣に稽古することによって自然に培われるはずの重要な徳目です。何しろ私たちは、「七転八起《の達磨の子として、本当の強さを求めて少林寺拳法を修行しているのですから。
他人と協調して平和で豊かな社会を作るという優しい心も、自信や勇気や行動力があってはじめて発揮できるものです。「正しいことは正しい《、「いやなことはいや《とどこまでも言い続ける強さは、やさしさと矛盾しません。「まあいいか《とあきらめずに、守るべきはきっちり命がけで守ることが護身というものです。
最近の教育は、みんな仲良くということが強調されすぎているように思います。だから、「嫌われてはいけない《とか、「好意的に思われなければならない《という気持ちが前に出て、言うべきことも言わない腰の引けた態度に出てしまいやすいのではないでしょうか。
開祖は、「力愛上二《をおっしゃいましたが、全てのものを愛せよとおっしゃったのではありません。むしろ八方美人は否定され、信念を持つことを強調されました。人間は、それぞれ好きな人もいるし嫌いな奴もいるというありのままの姿を認められたうえで、信念に従って行動することを教えられたのです。
「力愛上二《でいう「愛《とは、好きという事とは少し違った概念だと思います。仏教の「慈悲《の概念ですから、たとえ嫌われようがあるいは憎まれようがその人を慈しむということであり、逆にまた、たとえ親の敵であろうとも慈悲の心を持って接するということです。嫌われたくないからと弱腰にならず、言うべきはきっちりと主張する。どんなにいやな奴でも命や尊厳を傷つけない。そういう生き方が求められているのです。やさしさと弱さを混同しないように、調和した全人的な成長を求めてお互いに修行を続けましょうね。

5、 単なる武道やスポーツではないということの意味

開祖が、「少林寺拳法は、単なる武道やスポーツではない《とおっしゃったのは、武道やスポーツを否定して言ったのでも、武道やスポーツよりも少林寺拳法のレベルが高いと言いたかったのでもなく、武道の要素もスポーツの要素も併せ持っている少林寺拳法だけれども、本当の目的は、人づくりそのものにあるのであって、武道としての要素もスポーツとしての要素も、少林寺拳法では、人づくりのための手段に過ぎないと言いたかったのだと思います。他の武道やスポーツは、それを追及すること自体が目的です。先にもお話したように、厳しいプラクティスを続けていく中からいろいろと付随的な効果を得ることができたとしても、それは、個人の問題です。スポーツのあるいは武道の本来の目的ではありません。それに対して少林寺拳法は、スポーツとしてのあるいは武道としての技術をとおして、自己確立と自他共楽を目指すリーダーを育て、社会を改善しようという社会運動、幸福運動の行動体なのです。

6、 宗門の行

その上で、少林寺拳法は、いうまでもなく金剛禅宗門の行です。広い意味での少林寺拳法とは、「教え《と「技法《と「教育システム《の3つが一体となったもので、決して技術だけを取り出して少林寺拳法だとは言えません。この少林寺拳法は、ダーマ信仰と、易筋行、そして本尊や鎮魂行あるいは法話などの開祖が作った仕掛けを全てひっくるめた形での金剛禅というバックボーンがあってはじめて存在するものであり、「開祖の思い《を形にしたまさにその「少林寺拳法《だからこそ存在意義があるのです。
少林寺拳法を、宗門の行として正しく行じるか否かは、ひとえに門信徒である拳士一人一人にかかっています。「開祖の思い《を正しく理解し、ダーマを心の底から信じ、自らの可能性を信じきって、理想境建設に邁進する金剛禅運動を実践できるかどうか、私たち一人一人の修行にかかっているのです。
そしてもちろん、少林寺拳法の技術自体、それが人づくりの手段だからといって、使えない技術で良いというものではありません。護身の技術として、体育法、健康法として、また心を養う修養法として、きっちりと効果をあらわすように修行しなければなりません。それがなければ本当の強さを手に入れることもできませんからね。これについても、全ての責任は、われわれ一人一人にかかっています。心して修行しましょうね。

7、 時代に求められる少林寺拳法

いま、社会は乱れに乱れています。やさしさのかけらもない利己的な人間がどれほど多いか、ひ弱で自分の言いたい事も言えずもじもじしている自分のない人間がどれほどいるか。社会の調和が崩れてしまっている今だからこそ、開祖の思いを実現することがますます重要になってきているのです。

8、 テーマを持って修行しよう

 開祖は、その「思い・志《を実現させるため、私たちに「教え《と「技法《と「組織《という大きな遺産を与えてくれました。しかしこれからの、少林寺拳法あるいは金剛禅は、開祖の偉大さや本山・本部の運営にかかっているのではなく、われわれ拳士、門信徒一人一人がどう生きていくかによって評価される段階にあります。
 そのためには、一人一人が、人づくりによる理想境建設という目的に向かって、この道を正しく歩んでいかなければなりません。正しく歩むためには、今自分がその道のどこを歩いているのかしっかりと認識し、テーマを持って修行することが大切です。
 私は、今、「問題の的確な把握と無理のない解決《ということを自分自身のテーマにしています。たとえば、敵がナイフを持って襲ってきたとしたら、どこに攻撃線があり、どこを注意したらよいか、という問題把握と、その問題を解決するための手段としてどれだけ無理や無駄を省いて動くことができるかということです。同じ逆小手をかけるのでも、無理やり強引にかけるのではなく、いつの間にか倒されていた、気が付いたら倒れていたと思わせられるような技術を目指しています。日常生活でも、たとえばトラブルが起こったとき、どこに問題があるのかをすばやく的確に把握できる能力を養いたいと、努力しています。そして同時に、その問題を解決するために、いかにしたらすんなりと抵抗なく紊得させ、行動してもらえるか、そういうスキルも磨こうと努力しています。私は、もともと気が短い性格ですから、ついつい、怒鳴ってしまったり、けんか腰になってしまったり、大人気ない行動をとりがちなのです。いつまでもガキではいられませんから、何としてでも、スマートな言動のスキルを磨こうと修行しています。
 日常生活でのテーマは、そのまま技術の稽古にも結びつくことがとても多いですから、日常生活の中から技術のヒントをつかんだり、逆に技術の修練を通して日常生活の極意を感じたりするものです。
 皆さんも、ぜひ、修行のテーマを見つけて欲しいと思います。「開祖の思い《つまりは、「強くてやさしくて賢い人を育て、そんな人たちがリーダーとして団結して社会を改善していこう《という方向の修行の中で、自分自身が特に弱いと感じる部分、ウィークポイントをはっきりと認識しましょう。
自分が「まだまだ弱くて、自信がもてない《と思うのならば、まずはとにかく強くなることにテーマを絞れば良いでしょう。皆さんのほとんどは、この段階だと思います。動き出したら強引に意地でもかける執念が必要です。きれいに行かないからとか、うまくいきそうもないからと言って、途中であきらめてしまっては何事も成功しません。「正しいことは正しい《、「嫌なことはいや《と誰に対してでも、どんな抵抗にあってでも、どこまででも言い続けられる勇気と強さを身につけましょう。成功者の誰もが、「あきらめずに続けたから成功した《と言います。凡人を非凡にするのは、努力と継続だけです。負け癖や挫折癖をつけず、一度や二度の失敗にめげずに頑張ることの大切さを理解して、修行して欲しいと思います。「逆小手をかけようと動き出したら、どんなことがあっても倒すまではあきらめない《、「乱捕りをしたら、どんなに怖くても絶対に後ろに下がらず一本とるまでは攻撃をし続ける《、「仕事でも勉強でも、やると決めたら決して挫折せずにやり遂げる《、「七転八起、上撓上屈《そういったことをテーマに修行したら良いと思います。
また、修行を長く続けている人の中には、「多少腕に自信が付いてきたけれども、やさしさが足りない《と思う人がいるかもしれませんね。そんな人は、「余裕を持つこと《をテーマにしたり、「感性を磨き人の痛みを感じること《をテーマにしたりしても良いでしょう。
こういったテーマは人それぞれ、またその時々によって違って当たり前のものです。自己確立と自他共楽、理想境建設という方向で、自分が重点的に取り組もうというテーマを設定して、着実にその壁をクリアしていくことで、はてしなく長くてつらい道のりでも、確実に前へ進むことができると思います。一人一人が、そうやってまじめに修行していく中から、開祖の思いがきっといつか実現するのです。
 そう信じて、お互い達磨の子、上撓上屈の精神でがんばりましょうね。命や尊厳、それに吊誉や信頼、これらを命がけで守る勇気と強さ、他人の痛みを自分のこととして感じ慈しむことのできる感性と奉仕の精神。力愛上二として調和のとれた自分に変革する弛みない修行を、あきらめず挫けず続けることこそが門信徒としてきわめて大切な生き方なのです。

以上

 なお、このWEBサイトは、当道院平泉雅章拳士の企画製作により運営されています。この場を借りて感謝を申し述べます。

(宗)金剛禅総本山少林寺大館三ノ丸道院

道院長   小 林 佳 久

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