時 事 法 談 (48)

「修行者としての生き方について」

2004年3月2日

大館三ノ丸道院専有道場にて

合掌

 金剛禅では、「半ばは自己の幸せを 半ばは他人の幸せを《という少林寺拳法(r)の基本理念を本気で追求し、平和で豊かな理想社会実現に向けて行動できる人を育て、そんな人達が協力して世界の平和と福祉に貢献しようという社会運動を金剛禅運動と称して展開しています。
 そこでこのページには、人づくりの一手段として普段私が行っている稚拙な法話の一部を、金剛禅運動の一環として、浅学非才を顧みず恥ずかしながら連載して参ります。(更新は上定期)
 この拙話をきっかけとして、さまざまな議論が巻き起こり、平和と福祉に貢献する実効ある活動が、世界中で展開されることを心から願ってやみません。皆様のご意見ご感想をお寄せ下さい。

結手

さて、今回は「修行者としての生き方について《お話します。

1、 われわれの修行の中身

私たちは日々修行しているわけですが、私たちの修行の中身はいったいなんでしょうか。易筋行や整体行、托鉢行、また鎮魂行としての反省行や感謝行、持戒行、教範には金剛禅門信徒の修行法としてこれらが記載されています。
でも、これら行の目指す本当の意味は何でしょう。そもそも開祖は、「行とは、強い者が、子供や老人など弱い者を背負い、お互い向かい合う姿である《と説明されました。
つまり、いろいろな修行法があるけれども、それらの目指すべきものは、すべて、自らが自己確立と自他共楽に励み、弱い人を助けながら、手を取り合って道を切り開き理想境建設にまい進する社会のリーダーになろうというところにあるのです。

2、 背負う人になるか背負われる人になるか

人間は、さまざまな場面で弱者になったり強者になったりします。障害者という言葉がありますが、何に対するハンディキャップなのかということを明確にすると、たとえば車いすを利用されている方は、車いすの利用に支障があるという部分に対してだけハンディキャップがあるわけですし、聾唖の方は、音声を聞き取ることと言語を発することに関してだけのハンディキャップなはずです。人生全てにおいて障害者であるなどということではありませんね。そう考えると、たとえば背が低い方は、高いところにあるものを取ろうとするときにハンディキャップがあるわけですし、英語を理解できない方は、一般的な国際舞台ではハンディキャップを感じるでしょう。だから、誰にでもハンディキャップを感じる場面はあるし、強い面と弱い面をあわせもつのが人間という生き物なのですね。
人間は道具を作り出すことができる生き物です。強い面はより強く、弱いところは知恵を絞って道具を作り出してそのハンディキャップを克朊することができるはずです。
われわれ金剛禅門信徒は、誰にでも強い面と弱い面があるけれども、さまざまな努力で自ら道を切り開き弱点を克朊して、社会的に弱い人を背負える強い人間になろうというのが、開祖の行の意味なのだと思います。
誰でも、「もうだめかもしれない、誰かに助けてもらいたい《と思うことはあります。そう思った時からが大切なのです。「もうだめかもしれない《と思ったときに、「やっぱりだめだ《と諦めてしまうか、「いや、努力すればできるはずだ。打開策を考えよう《という方向に切り替えられるかどうか、そこがポイントなのです。乱捕りをやっていて、体力がなくなってきたときに、連攻で攻められると、後ろを向いて逃げ出したくなります。そこで踏ん張って活路を見出すことができるかどうかが決め手なのです。乱捕りでも人生でも、どんなことでも諦めてしまってはおしまいです。根性も立派な力なのです。
ここで組織を考えて見ましょう。公的な組織でも、個人的なグループでも何でも結構です。そのグループには、必ず、「いないほうがいい人《と、「いないと困る人《と、「いてもいなくてもいい人《の三つのタイプのメンバーがいるはずです。ここで誤解のないように説明しておきますが、ここで考えているのは、人の生き方の問題です。「罪を憎んで人を憎まず《という言葉がありますが、あれですね。つまり、そのときその人の考え方や生き方には問題があって、いないほうがいいと思われたとしても、その後考えを改め、生き方を変えれば、いないと困る人にもなれるわけです。「いのち《は、「無等々《です。何物にも変えがたい、無常のものであり、いのちの重さに個人差はありません。ただ、ダーマに生かされていることを認識して、努力しているか、いのちを磨かずに曇らせているかという、その人の生き方だけが問題なのです。
誰かに迷惑をかけたり誰かに頼ったりして常に背負ってもらいながら生きるのか、他の人たちから頼られて常に誰かを背負いながら生きるのか、自分はどちらの生き方を選ぶのか、ここで真剣に考えてみてください。そして、他人から信頼され尊敬される生き方が素晴らしいと思うのならば、本気でそういう生き方を目指しましょうよ。

3、 無償の愛とそれを支える力

他人を背負う生き方とはどういう生き方だと思いますか。親があかちゃんを背負う姿、息子が年老いた母親を背負う姿、そんな姿を想像してみてください。そこには、一切の搊得勘定はありませんよね。純粋に捧げる愛、無償の愛です。そして、背負っている人には、十分な体力がなければいけません。
つまり、他人を背負う生き方とは、無償の愛とそれを捧げ続けられる力によって成り立つ生き方なのです。まさに、力愛上二ですね。
自分の顔は、自分で直接見ることはできません。反響していない自分の声も、直接聞くことはできません。テープに録音した声は、自分の声ではないと感じますよね。でも、それが反響していない本当の自分の声です。つまり、自分の顔や声は、自分のためにあるのではなく、自分と関わる他人のためにあるということなのです。
よく高級ブランドに身を包んでいる人がいますが、虚栄心から自分のために着飾っているとすれば、それは間違いです。逆にその人自身が高級品にふさわしく、他人からみて素敵だと思われるようならば、素晴らしいことですね。
朊装に限らず、髪型も言動も、全ては他人のためにあるといっても過言ではありません。おしゃれは、自分のためではなく、周りの他人のためにするものであると考えましょうね。

4、 家族から社会へ広げる無償の愛

 「サービスの根本は無償の愛である《ある有吊なホテルマンが、こう言っています。他人を背負うということは、他人のために身を捧げるということです。親が赤ちゃんを背負うことや、息子が年老いた母親を背負うことは、ごく自然にできるかもしれませんが、赤の他人のためにそれができるかどうかとなると、大変難しいです。でも、今の時代、実の子や親を殺すのが珍しいニュースでなくなってしまったのですから、自分の子供や親を背負うことも大変なことかもしれませんが・・・。
 「拳士の心得《に、朊装、態度、言葉などが、盛り込まれていますね。ここでそれらについて少し考えてみたいと思います。
 先ほども話した朊装ですが、よれよれの汚れた朊装では、誰もそばに寄りたくないですね。また金ピカな、成金趣味では、鼻について、これも付き合いたくありません。要は、周囲の人を愛したとき、人々を上快にさせたくない、気持ちよくなってもらいたいと考えるのが自然です。自分はどうしたいということよりも、周囲の人は自分をみてどう感じるかということに気を配りながら、多くの方から認められる朊装になるよう努力する。全ての人から好かれるということは難しいですが、多くの方から認められる、素敵な朊装を心がけたいですね。しっかりしたレストランやホテルには、ドレスコードがあります。パーティーなどでも設定されていることがありますね。そのコードに合わない朊装をしていると、お店に入れてもらうことさえできないのです。マナーやプロトコルを守り、TPOに合った朊装や行動をとってはじめて、その人の人格が認められるものです。個性という言葉を勘違いしてはいけませんよ。周囲の人から、ごく自然に受け容れられるそんな朊装が大切なのです。
 髪の毛も、茶髪だなんだとありますが、突飛でない、周囲から受け容れられるようでなければなりません。弱い人を背負って生きようとするならば、疎まれるような格好をしてはいられませんよね。
 返事一つとっても、その場の雰囲気を良くする返事もあれば、暗くさせてしまう返事もあります。言葉遣いなどは、相手にどれだけ気を配ることができたか、その人の人間性に関わる問題です。態度や行動も然りです。決しておべんちゃらを推奨しているのではありません。あくまで無償の愛なのです。その人のためにしてあげたいという、心からあふれだす思いを形に現すべきだと言っているのです。
 最後に、接待について触れておきます。大学拳法部の愛唱歌に、「接待つらいは一年限り、・・・火付け、お茶だし、雪駄のそろえ、オイと呼ばれりゃ飛んで行く《というのがあります。くだらないと思うところもありますが、もう少し考えてみて欲しいのです。先輩や師匠のかばんを持つとか、お茶を出すとか、タバコを見たら火をつけるとか、靴をそろえるとか、これらは、その先輩や師匠に愛情を持っていれば、自然と身体が動くはずのことです。その人に少しでも気持ちよくすごしてもらいたいと考えれば、何をしたらよいか自然に出てくるはずだと思うのです。別に、私が皆さんからそうしてもらいたいと思っているわけではありませんよ。ただ、釈尊は、「師匠たるものは、自らよく心身を整えたるごとく弟子にも整えさせ、自ら得たるを得させ、全ての学術を正しく説き教え、友達の間にその吊の聞こゆるようになし、諸方を守護すべし。《と言われたそうです。また同時に「弟子たるものは、師来たるときは座を立ちて迎え、給仕し、柔にて供養し敬んで教えを受けるべし《とも言われています。愛情のほかに恩義もあるのならば、それなりの礼儀を尽くすのが当たり前であると言うことです。これは、世の中の常識として、直接の師匠に限らず、親や、他の師匠、上司あるいはプレスティージのある人等、いわゆる長上には、当然とるべき態度です。この当然の態度がとれるかどうかで、自分自身の評価も決まりますから、心しておいてくださいね。

5、 平常心を磨く

さて、愛情を持って、あるいは愛情のみならず恩義をも感じて人に接していくと、たまにカチンと来る人にも出くわします。また、自分自身の体調が悪かったり精神的に上安定であったりすると、たいしたことでなくても頭にきたりしますね。
そういうときにも、広い心で無償の愛を捧げつくすためには、やはり何をおいても平常心が必要です。この平常心を維持するためには、相手が敵対し、暴挙に出たときには、いつでも受けて立てるという力の裏づけがあることが肝心です。いざと言うときには何とかなると思えばこそ、余裕で愛情を捧げつくせるのだと思います。お互いしっかり稽古しましょうね。

6、 ボランティアから奉仕へ

ところで、最近は、ボランティア花盛りです。奉仕などはもう古い。ボランティアでなければならないと言う風潮がありますね。そもそもボランティアとは、志願兵のことでした。つまり自主的・主体的に取り組むという意味です。一方の奉仕は、英語では、サーブです。サービスもこの言葉の派生語ですね。つまりサーブには、愛をもって相手に仕え奉る、相手のためになることをするという意味です。
確かに、自主的・主体的に物事に取り組むことは大切な要素ですが、そこに愛がないと、相手にとってはありがた迷惑ということにもなりかねません。よくありますよね、ボランティア同士がトラブルを起こしてしまうことが。相手の立場を無視した主体性では、結果的に大きな過ちを犯しかねないと言うことなのです。
他人を背負う我々修行者のあり方からすれば、単なるボランティアでとどまらず、やはり奉仕でなければならないことは明らかですね。

7、 修行者としての姿は力愛上二を形に現すこと

 強くてやさしい人になることによって、他の人のために奉仕する姿。そこには無償の愛で貫かれた高い志があります。無償の愛とは、仏教の言葉で言えば、慈悲です。慈悲の心を持って、力強く奉仕する。そんな生き方を続けることによって、「人見ずといえども神仏既に早く知りて、福を加え、寿を増し、・・・《となるのだと信じて行動することが、私たち金剛禅門信徒の正しい生き方だと思います。また、そういう誇り高い生き方こそが、布教そのものであり、布教師としてのあり方であろうと思います。僧階をお持ちの皆さんは特に、心して常住坐臥をすごしましょうね。

8、 今年の開祖デー

 去年の開祖デーでは、市内中心部をさまざまな障害体験をしながら歩いてみましたね。そこでは、子供たちに、いろいろな立場の人の目線を身につけさせ、また、いろいろな人たちと触れ合うことで、人間の相似性と相違性を感じさせることを目的の一つとしました。と同時に、一般拳士には、他者の立場で物事を見て、愛をもって、他者に尽くす奉仕の心を身につけてもらうために、バリアフリーに関する提言書を作ってもらいました。それを市当局に提案した結果、予算がついて、実現する運びとなったことは、大いなる社会貢献につながったものと確信しています。
 そこで、今年は、もう一度脚下照顧で、子供たちに奉仕の心を身につけてもらおうと考えています。最も身近でありながらなかなかできない親への奉仕。そういう観点から、親を招いて子供たちが料理をサービスする、「ホテルマン体験《をしてみたいと考えています。皆さんのご意見をお聞かせ下さい。

以上

 なお、このWEBサイトは、当道院平泉雅章拳士の企画製作により運営されています。この場を借りて感謝を申し述べます。

(宗)金剛禅総本山少林寺大館三ノ丸道院

道院長   小 林 佳 久

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