時 事 法 談 (40)

「ゆるぎない価値観について」

2003年7月1日

大館三ノ丸道院専有道場にて

合掌

 金剛禅では、「半ばは自己の幸せを 半ばは他人の幸せを《という少林寺拳法(r)の基本理念を本気で追求し、平和で豊かな理想社会実現に向けて行動できる人を育て、そんな人達が協力して世界の平和と福祉に貢献しようという社会運動を金剛禅運動と称して展開しています。
 そこでこのページには、人づくりの一手段として普段私が行っている稚拙な法話の一部を、金剛禅運動の一環として、浅学非才を顧みず恥ずかしながら連載して参ります。(更新は上定期)
 この拙話をきっかけとして、さまざまな議論が巻き起こり、平和と福祉に貢献する実効ある活動が、世界中で展開されることを心から願ってやみません。皆様のご意見ご感想をお寄せ下さい。

結手

さて、今回は「ゆるぎない価値観について《お話します。

1、 多発する少年犯罪

 最近やけに、少年の犯罪、それも凶悪な犯罪が新聞を賑わせていますね。一体どうしてこんな状況になってしまったのでしょうか。「キレル原因は、平常心の欠如にある《と、以前の法話で話しましたが、自分に火の粉が降りかかってくるとき、軽く振り払えばそれで済むのか、少し水をかければよいのか、消火器で消さなければならないのか、あるいは消防車から放水してもらわなければならないのか、その適切な判断がつかないほど平常心を失った時がキレた時だと思うのです。乱捕りを見ていても、普段はおとなしくきっちりと寸止めができるのに、相手のパンチが入った瞬間にキレて、ボコボコにしてしまう人もいます。「この野郎!《と思った瞬間、自制をかける全てのブレーキが壊れてしまう。そうならないためにも、常日頃から平常心を持ちつづける修行を続けていかなければなりません。

2、 自分の立場と他人の立場

 急いで車でどこかへ行こうとしている時に、自分の前を走っている車が、とろとろしていると「速く走れよ!《と思いませんか。でもその人は、道に迷っているのかもしれませんし、スピードが怖くて速く走れないのかもしれません。とかく、自分中心に物事を考えてしまうものですが、相手の立場になってみると、その人の行動が良く理解できるものです。「自分さえ良ければそれでいい《という考えから離れて、自他共楽を目指す生き方をするためには、自分に自信や余裕があって、平常心でいられることが前提になると思います。急いでいないときなら、前の車がとろとろしていても、待ってあげる気持ちの余裕がありますよね。だから金剛禅の修行では、自己確立と自他共楽が並行して求められるのです。自分自身を律する力のない人は、他人と協調することなどできるはずがありません。若年者による事件の多くは、他人と協調しようという気持ちがないのではなくて、自分を律する力がないのだと思います。普段はおとなしくても、カチンと来るとすぐに平常心を忘れてしまい、他人の立場を慮る余裕がなくなってしまうのではないでしょうか。

3、 人間誰しも認められたい欲求がある

 人は誰でも、他人から認められたい、せめてバカにはされたくないという思いがあるはずです。強くなりたいという気持ちは、そんな思いから生まれるのだと思います。せめて自分自身や周囲の人たちの尊厳を守ること、それが護身術を求める人にとっての最初の目標ではないでしょうか。尊厳を傷つけられても何も言わずに我慢するというのは、単なるあきらめです。やはり、他人から否定されたりバカにされたりしたときには、断固として戦う事が必要であり、また尊厳を守るために戦うのは至極当然のことだと思うのです。拳法の修行をしていながら、それすらできないようでは、意味がありませんよね。修行をとおして、自分の可能性に気付きいざというときには素手でも何とかなるという自信をつけることによって、勇気を養い、「嫌なことはいや《と言える、そんな強さを身につけるのが少林寺拳法なのですから。
ただし、いかにして戦うかがとても大切です。路上でふざけていた事を注意した人が殺されてしまいました。とても悲しい事件です。勇気をもって行動した結果、被害者になってしまった例が今までも数多くありました。何にも増して悪いのは、犯人であるわけですが、ここで少し考えてみなければならない問題があります。一つには、果たして勇気を持ってやめさせようとするとき、それを実行するだけの力があるかどうかという点です。開祖は、「正義の伴わない力は暴力であり、力の伴わない正義は無力である。《と仰っています。つまり、「嫌なことはいや。悪い事は悪い《とはっきり言うためには、それなりの力が必要であるという事です。力が及ばない者に立ち向かうのは、蛮勇です。一人で駄目なら、数の力や、権力などあらゆる力を動員して、悪さをする者よりもさらに上の力を持ってして止めにかからなければ、悲しい結果となりかねないのです。まさに力愛上二ですよね。
そしてもう一点考えなければならないのは、戦術は正しいかという点です。昔から、戦力が十分であっても戦術が良くなかったばかりに破れてしまった戦はたくさんあります。逆に、戦力の面では相手のほうが上であっても、戦術が勝れば、打ち負かす事も可能なのです。言葉を変えれば、作戦も力のうちなのです。路上でふざけているという状況を第三者が見れば、確かに問題があり危険ですから、注意もしたくなります。でも、そのふざけていた連中にも、何らかの理由があったのかもしれません。それを、頭ごなしに「コラ、バカ者。さっさとどっかへ行け《と、もし言ったとすれば、その連中からしてみると、「バカにされた《ということになるわけです。被害に遭われた方がそうだったと言っているわけではありませんよ。勘違いしないでくださいね。この話は、被害者がどうだったかという世間話ではなくて、私たち拳士自身がそういう場面に出くわした場合、どんな声のかけ方で、またどういう作戦で戦ったら、当初の目的である「路上で寝転んでいる奴らをその場から立ち退かせ安全を確保する《ことができるのか、そういうことを私たちは、常に考え、また決断しなければならないという例えなのです。
人間は誰でも、認められたい、評価されたいという思いがあります。自分が思うのと同じように他人もそう思っているはずです。その気持ちを汲んだとき、自ずと作戦が決まってくるのではないでしょうか。これは、上正を行なう者とけんかをするときだけのものではありません。子供とどう接するか、自分のパートナーといかにして協調していくかというときにも、十分に考えなければならないことだと思います。

4、 みっともない事をしない・人の目ばかりを気にしない

 最近、みっともないことを気にしない人が増えているといわれます。みっともないとは、「見たくもない《が「見とうもない《になり、「みっともない《と変化したそうです。恥ずかしさを知る、あるいは我慢するというのは、とても大切な事です。そういう価値観を自然に子供たちに椊え付けていくのが、大人の役割だと思います。そんなしつけをされた子供は、問題となっているような少年犯罪とは無縁でいられるでしょう。
 でも、人目だけが大切なのではありません。先月もお話しましたが、「人道《と「天道《の違いです。有限でちっぽけな人間の計らいをはるかに超えた真理や法則、無限・無量・無等々のダーマである天に従う道が最も大切なのです。
 そうすると、道訓にある「人見ずといえども、神仏既に早く知りて《という言葉がわかるはずです。人が見ていなければ良いという感覚ではなく、自分の信じるダーマ(法)に照らして、正しい行いか悪い行いかを判断して、「全て悪しき事をなさず、よきことを実践し、自己の心を清むること《が大切なのです。そういう生き方は、他人の目を気にしません。誰に見られていようが見られていまいが、良いと信じる事をただ行なうだけなのです。私がそう生きられていると言っているのではありませんよ。恥ずかしい事ですが、そう生きたいと常日頃思っているだけです。とても難しい事ですから、せめてそう生きようと努力しているわけです。なかなか思うにまかせませんが、・・・。
 苦悩の根源は、事実と期待の矛盾を自分のなかに受け入れられないことにあります。つまり、事実と違う事を期待するから、悩みが起こるのです。そしてその期待とは、多くの場合、他人の目から導きだされます。「評価されたい《、「認められたい《、「バカにされたくない《。そんな思いが期待を膨らませます。しかし、時として他人は思うように評価してくれないのです。そんな時に、平常心を保つための修行をしていないと、キレて相手を傷つけてしまうかもしれないわけですね。
 先に話したように、自分や周囲の人たちの尊厳を護る戦いは絶対に必要です。でも、たとえ他人からバカにされたとしても、自分で自分をあきらめなければ、決して負けではありません。自分で自分をあきらめないということは、信じるものによって自分の正当性を保つという事です。自分で自分をバカにしないということです。ダーマ信仰にもとづいたゆるぎない価値観を自らの心に強く持っていれば、なにものにも左右されない安心立命が得られると思います。自分の心は乱されない磐石さをもって、その上で、きっちりと悪と戦えばいいのです。
 それこそが、宗教の意義です。みんなで自己確立に励みましょう。

5、 他人との協調関係をつくるときには自尊心をくすぐる(自他共楽)

 最後に、より良い人間関係を築くための秘訣を一つ。
他人とうまくやろう、他人との間で協調関係を築こうと思ったら、その人の自尊心をくすぐる事です。認められたい、評価されたいという思いは、社会的欲求として非常に強いものがあります。その欲求を満足させるような言動をとることによって、しかも、それを相手より先に行なう事によって、必ず好意を抱いてもらえるはずです。自分のパートナーに試してください。逆に、別れたい相手に対しては、相手を否定し、バカにしたような態度をとれば、効果てきめんだと思います。
打算ではなく、心の底から相手のことを思ったとき、自然に相手を敬い尊重する言動が現れるはずです。それを相手が見逃すはずはありません。拝み合い援け合いの世の中は、そういう言動の中から実現されるのです。

以上

 なお、このWEBサイトは、当道院平泉雅章拳士の企画製作により運営されています。この場を借りて感謝を申し述べます。

(宗)金剛禅総本山少林寺大館三ノ丸道院

道院長   小 林 佳 久

 ご意見・ご感想は大館三ノ丸道院長、または大館三ノ丸支部ホームページの「拳士のひろば《へお願いします。