時 事 法 談 (35)

「行としての大会について」

2003年2月4日

大館三ノ丸道院専有道場にて

合掌

 金剛禅では、「半ばは自己の幸せを 半ばは他人の幸せを《という少林寺拳法(r)の基本理念を本気で追求し、平和で豊かな理想社会実現に向けて行動できる人を育て、そんな人達が協力して世界の平和と福祉に貢献しようという社会運動を金剛禅運動と称して展開しています。
 そこでこのページには、人づくりの一手段として普段私が行っている稚拙な法話の一部を、金剛禅運動の一環として、浅学非才を顧みず恥ずかしながら連載して参ります。(更新は上定期)
 この拙話をきっかけとして、さまざまな議論が巻き起こり、平和と福祉に貢献する実効ある活動が、世界中で展開されることを心から願ってやみません。皆様のご意見ご感想をお寄せ下さい。

結手

さて、今回は「行としての大会について《お話します。

1、秋田県北ブロックで主管する県大会

 新春法会でもお話しましたとおり、今年の秋田県大会は鷹巣南支部長が実行委員長として運営にあたります。当然、その地元である秋田県北ブロックが一致協力して実施していくことになります。この地区は、金剛禅の小教区と少林寺拳法連盟のブロックが完全に一致しており、何を行なうのも同じメンバーでということになりますので、とても恵まれていますね。
本来県大会は、財団支部の連合体として行なわれるものなのでそこに宗教色はありませんが、私たち金剛禅門信徒が運営し参加するわけですから、当然、他の競技スポーツの大会とは質の違うものであるはずです。ましてや、主管ブロック全ての拳士が金剛禅門信徒である以上、より一層質の高いものにしなければなりません。

2、大会三目的

では、少林寺拳法の大会はどうあるべきなのでしょうか。最近本部ではこのことについて議論が深められているようですが、当面は、今現在示されているいわゆる大会三目的について、まず皆さんに理解してもらいたいと思います。
その一つは、互いの技術研鑚と向上をはかることです。井の中の蛙にならないように、多くの拳士と技術を比較して、目標を発見したり、振り返ったりしながら技術の向上に役立てる場としなければなりません。
二つめは、同志的連帯意識の昂揚をはかることです。拳士同志協力して大会を作り上げながら、その連帯感や親睦をたかめ、競技の面でも、賞賛やいたわりの心で友情を育む場としなければならないのです。
そして三つめは、部外者の理解と協力の拡大をはかることです。拳禅一如の修行法や幸福運動などについて、その内容を正しく公開し、部外者から理解と協力を得られるようにしなければなりません。少林寺拳法の大会では、これら三つの目的を明確にしなければならないと規定されているのです。

3、大会も修行の一環

一般の競技スポーツでは、大会の目的は、まず何をおいても勝負ですね。どんなにきれいごとを言っても勝たなければ意味がありませんし、勝つために必死に戦う姿を見て、観客もまた喜び感動するのだと思います。そういうあり方も一つだとは思いますが、少なくとも少林寺拳法の大会はそうあるべきではありません。というよりも、勝敗を求めるのならば少林寺拳法の大会ではなく、K-1などのほうがよっぽど面白いでしょう。
とはいえ少林寺拳法でも過去には学生大会で、トーナメント形式の乱捕り全盛時代がありました。聞くところによると、確かにその当時は、各大学の部員数も大変多く、大会では必ず日本武道館が満席になるほど大盛況だったようです。見ていてもとても面白い大会だったのだと思います。またその当時の人たちのなかには、非常に強い絆で結ばれた仲間意識を持っている方も大勢いらっしゃいます。それは、普段から気心の知れた付き合いがあり、真剣な技の交換があったからこそ成り立ったものだと思うのです。
その後、年を追うごとにまた組織が大きくなるごとに、だんだんと他大学との普段の付き合いが疎遠になり、ただ大会だけの場で勝負に勝つ事だけを考えるようになると、とても殺伐とした、殺気あふれた大会になってしまいました。同じことをやっても目的が違えば結果は大きく変わってしまいます。その当時殺伐とした大会を大会会長としてご覧になっていた松平先生が、「これは少林寺拳法ではない《と仰ったそうです。少林寺拳法には、開祖の志があります。いわば原点です。開祖は、これを船にたとえられました。金剛丸です。金剛丸の船長は開祖ご自身であり、私たちは開祖によってリクルートされた乗組員であり、乗客です。最初から目的地と航路が決まっている金剛丸にあとから乗ってきた私たちが、その航路を変えろとか、目的地を変更しろ等といえるでしょうか。別のところへ別の方法で行きたいならば、さっさと船を下りて、目的地や路線が違う飛行機にでも乗り換えればいいのです。試合の成績にこだわりチャンピオンシップを望むのであれば、少林寺を辞めてそういう団体に入るべきだと私は考えています。
少林寺拳法は、自信と勇気と行動力を兼ね備えた強くて優しい人になろうと努力し、そうなりたいと願う仲間が協力して理想境建設に力を尽くそうという団体です。そうである以上、少林寺拳法として行なわれる事全ては、そのための手段であるはずです。普段の修練はもとより、合宿も大会も儀式行事も何もかも。ましてや、ダーマによって生かされている喜びを自覚し、あらゆる可能性を秘めた人間として、主体的に社会に貢献しようと自己確立の修行に励む金剛禅門信徒は、行住坐臥全てが修行ととらえるべきなのです。

4、競技に出場する意義と目的

 大会三目的に沿って企画運営される少林寺拳法の大会に、競技者として参加する意義や目的はどう考えたらよいのでしょうか。まず純粋に競技だけを取り出した場合、大会というある種の目的に向かって、技を練るということは、それだけでもうまくなる要素が一杯です。普段から危機意識を持って、いざ実戦になった場合どうしたらよいかと考えながら修行することは、物騒になってきたとはいえまだまだ平和な日本では、なかなか難しい事です。それでももちろんそういう意識を持ちつつ稽古をしなければならないわけですが、一つの手近な目標という意味では、大会も非常に有意義だと思います。また、他の拳士との比較を行なって、自らを省みることも当然重要ですね。
少し話がそれますが、そういう意味では今の表彰規定について、もう一度じっくり考えてみる必要があると、私は個人的に思っています。今の大会では絶対評価による点数をもとに相対評価がなされ表彰されます。この形は、「誰でもが、努力すれば必ずできる《という少林寺拳法の理念と、少し違うのではないかと思っているのです。どんなに努力しても入賞しない人もあるでしょうし、出場組数などの関係で努力していなくても入賞する人もあるでしょう。そこで、絶対評価の点数をもとに、一定レベル以上にできた拳士全員が表彰され、その上で相対評価の結果も、客観的に見えるという形が理想ではないでしょうか。つまり、ここまでできていれば「優良《であるとか、これ以上できていれば「優秀《であるなどと評価された上で、上手さの序列のわかる評価方法が検討されても良いのではないかと考えています。もちろん審判制度の問題もクリアしなければなりませんが、もし実現すれば、競技者としての目標、つまりは、自分が一定のレベルに達しているのか、あるいはまた他の拳士と比較した場合どの程度にいるのかといった事が、よりクリアに見えてくると思うのです。今回の大会で実現できるかどうかはわかりませんが、競技に参加する皆さんも少しだけ期待していてください。
 さて話はもとに戻りますが、その上で、実際に競技者として大会に出場すると、自らの心の乱れを修め平常心を養う事もできます。努力の結果が見えて自信もつくでしょう。何より好きな拳法を好きな仲間と思いっきり楽しめるではないですか。そして、懐かしい顔に再会し、また新たな仲間ができる、すばらしい事です。

5、運営を担当する意義と目的

 では、大会を運営する立場にある実行委員にとって、その意義や目的はなんでしょうか。少林寺拳法の原点に忠実に、開祖の思いを形に表して、大会三目的を前提として、その大会独自の目的や目標を定めるところから話は始まります。大会を考えるということは、少林寺拳法を深く考えるという事です。その大会に出場する拳士や、観覧する方々に、何を訴えたいのか、そこを真剣に議論するところに大会運営の最大の意義があるとも思います。つまり、大会を企画し運営することによって、少林寺拳法を深く認識する事ができるのです。
 また、目的や目標を達成するために、様々な事を考え企画し実行していく過程は、物事を深く追求する態度を養います。決して洩れがないようにあらゆる状況を考慮して企画を練っていく作業は、まるで拳法の稽古をしているようです。相手の構えや間合いから繰り出されるであろう攻撃を絞り込み、それに応じた対処法である法形を稽古する。法形修練と同じような作業こそが、実行委員会の役割といえましょう。そして実際の運営にあたっては、急な事態になっても、その場に応じて何事もなかったかのように切り抜けていく。まるで送小手がだめなら送巻天秤や送閂小手に変化するようなものです。戦略を練り、その積み重ねを運用法で実験し修正して向上する。また、変化に応じて対処できるように連絡変化の訓練を積む。そんな道場での修練と、大会の運営は、本質的に同じことなのです。
 これら実行委員会活動において、何より大きな収穫は、仲間とともに協力して作り上げることによって成り立つ信頼関係や絆です。同じ目的に向かってともに努力して行なう行事は、組織力や団結力を高めるのです。それによって、今後の金剛禅運動を推進する力が生まれます。今、金剛禅では、同志として団結しともに社会のために行動できる古き良き組織に、立ち返ろうとしています。開祖が目指された「青幇《のような組織作りのための、有効な手段が大会の企画運営なのです。

6、社会活動の演習場

 大会は、普段の稽古が試される場です。それは、競技における技術ばかりでなく、企画運営における行動にも当てはまります。拳法の極意を大会運営に活かさなければ、何のために修行しているのかわかりません。逆にいえば、大会は、社会活動の演習場として、拳法の極意を如何に活かすかを考え実践し試してみる模擬演習の場なのです。拳法が上手な人は、大会の企画や運営もうまくこなすはずですし、日常生活でも、拳法の極意を活かして幸福な安心立命が得られのではないかと思います!? 昔山門集は、年中作務ばかりさせられていたそうです。開祖は、拳法の技だけうまくなるのではなく、その極意を、作務に活かし日常生活に活かせと、教えられていたのではないでしょうか。

7、みんなで成功させて個人と組織の将来の礎にしよう

 今回の県大会は、そういう意味のある大会です。ポジティブシンキングで、自分自身の、自己確立の修行に充分に役立てようではありませんか。そして、この大会をきっかけに大いに少林寺拳法を普及し、新たな社会貢献に役立てようでは在りませんか。この大会を「金剛禅運動の大いなる一歩《にすると、我々の心の中で位置付けたいと思います。
県大会は宗教活動ではありませんが、現場の実行委員は金剛禅門信徒だけですからあえてこう表現します。小教区一丸となって団結して事に当たりましょう。みんなの力で成功させて、自分自身と組織の将来の礎にしましょう。

以上

 なお、このWEBサイトは、当道院平泉雅章拳士の企画製作により運営されています。この場を借りて感謝を申し述べます。

(宗)金剛禅総本山少林寺大館三ノ丸道院

道院長   小 林 佳 久

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