時 事 法 談 (29)

「護身の技術としての少林寺拳法について」

2002年8月1日

大館三ノ丸道院専有道場にて

合掌

 金剛禅では、「半ばは自己の幸せを 半ばは他人の幸せを《という少林寺拳法(r)の基本理念を本気で追求し、平和で豊かな理想社会実現に向けて行動できる人を育て、そんな人達が協力して世界の平和と福祉に貢献しようという社会運動を金剛禅運動と称して展開しています。
 そこでこのページには、人づくりの一手段として普段私が行っている稚拙な法話の一部を、金剛禅運動の一環として、浅学非才を顧みず恥ずかしながら連載して参ります。(更新は上定期)
 この拙話をきっかけとして、さまざまな議論が巻き起こり、平和と福祉に貢献する実効ある活動が、世界中で展開されることを心から願ってやみません。皆様のご意見ご感想をお寄せ下さい。

結手

さて、今回は「護身の技術としての少林寺拳法について《お話します。

1、最近の凶悪事件

 このところ、世相は度重なる凶悪事件で、何とも心が痛みます。群馬県では、2件の女性連れ去り事件が起きました。そのうちの一件は、犯人の隙を見て無事逃げ出す事が出来た上、次に拉致された夫婦が現職警官だった事も幸いして、一人もケガすることなく無事犯人逮捕となりましたが、もう一件では、連れ去られた直後に殺害され放置された上、やけに少ない額の身代金を要求されたという、何ともやりきれない事件でした。また、東京駅では、万引き犯を追いつめた店長が刺し殺されるという悲劇が起こりました。そのあとも、毎日悲惨な事件が次から次へと起こっています。 景気のせいなのか、あるいは教育の問題なのか、理由はわかりませんが、凶悪で残忍な自分さえ良ければいいという犯罪が増えている事だけは確かです。

2、勇気について

 そんななかで万一私たち自身が、こういう事件に巻き込まれたら、あるいは出くわしたら、果たして勇気ある行動がとれるでしょうか。 チキン・レースという勇気を試すレースがありますよね。でも、あれは決して本当の勇気を試すものではなくて、その人がどれだけ無謀かを試すレースだと思います。ここでは、開祖が昭和のはじめに大陸で体験されたことを、「少林寺拳法奥義《から紹介したいと思います。 『昭和のはじめ頃、私が日本の大陸政策の捨石として、当時満州と呼ばれていた中国の東北地方で働いていたころの事である。東北地方北部の大都会ハルピン市の「ファンタジア《という酒場で、大げんかがあった。ロシア革命で故国を追われた白系ロシア人貴族の経営する店で、当時羽振りの良かった日本の軍人や財閥関係の出先機関の人たちやあるいは出所上明の大金をふところに、ごろごろしている国籍上明の怪しげなる連中や、いわゆる満州浪人などのたまり場としても有吊だった。けんかは、若い関東軍将校と在満の少壮実業家の日本人同士で、白系ロシアの美人ホステスをめぐってのサヤあてだったらしいが、当時飛ぶ鳥も落とすといわれた関東軍の威光と、酒の勢いとで、かさにかかった将校が、「貴様、地方人のくせに手向かう気か《と、おどし半分で軍刀に手をかけたとき、度胸のあることで多少は人に知られていたハルピン在住の日本人妓楼の主人が仲裁に入った。「引け《「引かぬ《のやりとりのあげく、「あたしの仲裁が受けられないとは面白い。では、あたしを切ってからやんなさい《と大みえを切って、両手を広げて立ちはだかった。引っ込みのつかなくなったその若い将校は、「よし、それでは望みどおり、叩き切ってやる《とさけぶと、いきなり軍刀を抜いて、止め男の片腕をすっぱり切り落としてしまったのである。腕を切られ大量の出血に驚いて気絶してしまった妓楼の主人を見て、周囲の人たちは色を失い、悲鳴をあげて騒ぐばかりで、なすすべを知らない。当の将校は、血にまみれた軍刀をかざしたまま、放心の体で突っ立っている。私は、たまたま所用で「ファンタジア《によりそこの事務所にいたので、騒ぎを聞いて飛び込んでみると、ちょうどこのありさまであった。周りの人たちは誰一人として倒れた男をかつぎ出そうともせず、将校を取り押さえる事もできない。「ポカン《として立って見ているだけである。私は、根が、こういう場面に出遭うとじっとしておれない性分なので、止めに入ることに決心して、ゆっくり将校の斜め前から、「まあ、まあ・・・《と両手で制しながら近づき、パッと利き腕をとっておいて、刀を取り上げた。彼があまりにも柄を固く握りしめているので、指をふりほどくのに苦労したのを覚えている。やがて駆けつけた憲兵に彼を引き渡して、この件は落着したが、このとき、私が彼をやんわりと取り押さえ、軍刀をもぎとることができたのは、私がすでに身につけていた拳法の「技《と、その修練を通じてつちかわれた一種の「胆力《のおかげであったと信じている。いくら度胸があるとか、胆ができているとかいっても、相手を制するための技術も備えもない度胸では、本当の強さとはいえないし、この妓楼の主人のように無謀、無意味というほかない。』 実際に自分の身を守るための真剣な修練を通じて、自信を身につけ勇気を養うということがどれだけ大切な事かよく分かりますね。

3、本当の強さ

 本当の強さとは、皆さん勉強されているとおり、単なる腕っ節の強さを言うのではありません。自分自身を拠りどころにできる自惚れでない自信、そしてその自信の中から生まれる本当の勇気こそが、強さの正体です。この強さを身につけるために、自分から進んで恐怖の中に身を投じ、あえて危険な修練を行ない、技術を身につけていくわけです。体が感じる恐怖を克朊するためには、体で覚えるのがもっとも手っ取り早いのは当たり前ですね。そういう稽古をしていく中で身につけた自信や勇気を、ダーマ信仰にまでたかめていくための、内修も大切になります。そういう拳禅一如の修行によって、自信と勇気と行動力を身につけた、強くてやさしい人に生まれ変われると信じて、日々稽古しているはずですよね。

4、護身の技術としての少林寺拳法

 軍の傭兵出身で暴力犯罪の対策などを専門とする会社を経営している人が、最近ある護身術のビデオを出しました。それを見て、私は、少林寺拳法は、やはりすごいという思いを強くしました。少林寺拳法は、開祖が中国の達人から習った数々の技術に、開祖ご自身の戦時下での体験を加味して、日本人向けに作られた全く新しい技術です。まさに、少林寺拳法は実戦の中から生まれた武道なのです。少林寺拳法が優れた技術であるということを、その護身術のビデオを見ることによって、私自身、よりはっきりと認識できました。少林寺拳法は、まさにいざというとき最も効果的に使える、護身の技術なのです。
 先のビデオを見てもう一つ感じたことがあります。それは、このビデオを見ても、決して護身の技術は身につかないと言う事です。これは何もその技術だけのことではありません。少林寺拳法でも、エッセンスを収録したビデオを見ただけでは決して上達できないのです。
 技術はどんなに優れたものであっても、それを使えるようにするためには、漸々修学、血のにじむような努力が必要です。理屈を知る事は大切ですが、身体で技術のコツを掴み、その技術を知り、分かり、出来るようになり、そして身につけるために流す汗。何より、恐怖に立ち向かう中から培われる自信と勇気。これらの裏づけがなければ、形を真似する事はできても、決して使える技術にはならないのです。
 技術力を高め、自信と勇気を養って、いざというときに自分の身くらいは守れるようになろうではありませんか。

5、危機管理と危険予知の専門家として

 少林寺拳法の法形は、一種のマニュアルだと思います。こんな状況のもとではこのように対処しなさいといったことが、六百数十にもわたってまとめられているのです。これらのマニュアルを自分のものにしていく中から、自信や勇気を身につけていくわけですが、同時に、普段の生活での危機管理や危険予知能力も磨いています。拳士たるもの、いつどんなときでも、先を読み危険を予知して、君子危うきに近寄らないというような生活を送りたいですね。その事がひいては、ベイルズ博士の言う、人生を思うままに生きるという生き方にもつながっていくのだと思います。拳法の極意を日常生活に活かすということですね。

6、技術あっての少林寺拳法

 少林寺拳法は、机上の学問ではありません。自分の身体を使って、汗をかいて身体で感じる教えです。どんなに素晴らしい考え方の持ち主でも、それを実現する力がなければ全く世の中の役に立ちません。まずは、技術を磨き、自信と勇気を身につけ、行動力を高めて、理想の楽土を建設するために力を合わせていきましょう。開祖は、虚弱な羊の群れを望みませんでした。強くてやさしくて、状況を適確に判断し、他人を引っ張っていける本当のリーダー達が仲間と協力していく狼の群れを求めていたはずです。みんなで一緒に、真剣な修行に取り組みましょう。

以上

 なお、このWEBサイトは、当道院平泉雅章拳士の企画製作により運営されています。この場を借りて感謝を申し述べます。

(宗)金剛禅総本山少林寺大館三ノ丸道院

道院長   小 林 佳 久

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