時 事 法 談 (27)

「金剛禅門信徒の修行法について」

2002年6月4日

大館三ノ丸道院専有道場にて

合掌

 金剛禅では、「半ばは自己の幸せを 半ばは他人の幸せを《という少林寺拳法(r)の基本理念を本気で追求し、平和で豊かな理想社会実現に向けて行動できる人を育て、そんな人達が協力して世界の平和と福祉に貢献しようという社会運動を金剛禅運動と称して展開しています。
 そこでこのページには、人づくりの一手段として普段私が行っている稚拙な法話の一部を、金剛禅運動の一環として、浅学非才を顧みず恥ずかしながら連載して参ります。(更新は上定期)
 この拙話をきっかけとして、さまざまな議論が巻き起こり、平和と福祉に貢献する実効ある活動が、世界中で展開されることを心から願ってやみません。皆様のご意見ご感想をお寄せ下さい。

結手

さて、今回は「金剛禅門信徒の修行法について《お話します。

1、最近の情勢

 最近になって、インドとパキスタンの問題が人類最大の危機としてクローズアップされて来ています。試算によると最悪のシナリオでは、1200万人もの核による犠牲が見込まれるといいます。アメリカ国防総省は大分以前から印・パの戦争シミュレーションを行なっており、パキスタンで軍事作戦を展開している軍隊や外交官の本国帰還も、事前に十分に練られた対戦争準備の一環としての事なのでしょう。有事に対応する準備を「なぜ今するのか?《などと議論しているどこぞの国とは、対応能力が大きく違うことを見せつけられます。けれども、有事の際の対応能力があろうとなかろうと、戦争、特に核戦争になったら、犠牲になるのは戦争を命令する指導者達ではなく一般の市民です。国連を始めとしたあらゆるチャネルを使って、なんとしてでも阻止してもらわなければなりません。ただ希望が見えるのは、パキスタンのムシャラフ大統領は、「正気の人は、核戦争に突入させない《と述べましたし、インドの国防大臣も「エスカレートさせることはない《と述べています。だからといって核戦争の恐怖が消えるものではありませんが、指導者の良識を期待せずにはいられません。 話は変わりますが、学生時代の友人がコロンビアの日本人学校に派遣されて、2ヶ月ほど前に赴任しました。多くの現地駐在企業の社員が本国に帰国してきている今、三つ巴の危険な国内情勢の中で、がんばっています。数ヶ月前に私が行ったネパールでも、ますます危険な状況が広がっていますし、中東の問題も解決の目処が立ちません。 強大な力を持つ超大国の利害によって、代理戦争が起こった時代とは異なりますが、やはり国家や民族の利害によって、一部の指導者が一般の市民を犠牲にして、紛争をおこしている状況は昔も今も変わりません。あらゆる階層に生きる人々が、調和の精神で行動するようになる事が、平和への唯一の道なのだとおもいます。

2、「修行」と「行」

 少林寺では、世界の平和の前にアジアの平和を言い、その前に日中の友好を言います。まずは足元からという脚下照顧の考え方ですね。そう考えると、他人を変えようなどとはせずに、自分を変えることが大切になってきます。つまり、自分が変わればそしてその自分が行動すれば、必ず社会が変わると、一人では無理でも、同志協力すればきっといつかは理想の楽土が建設できると信じているわけですね。 では、自分を変えるためにはどうしたらよいかというと、金剛禅門信徒として精進修行する事が大切なわけです。修行とは、中村元先生によれば「習い修め行なうという意味で、宗教においては神聖な存在との関連において宗教生活の統制・調節・規定などを実現するための精神的・肉体的行為である《そうです。その上で、「特に仏教一般では、仏の体験した境界を自己に実現しようと修養・工夫を凝らすため、修行の面を重要視し、修行に関する規定が他宗教に見られないほど細説されている《と説かれています。 開祖は、「少林寺拳法《を「金剛禅総本山少林寺《に伝わる「宗門の行《であると規定されました。この「行《について開祖は、「人間が一人の人間を背負って、向き合って生きていく姿《であるとされています。「人間がおこなう最低のモラルの基準である。年寄りか子供を背負って、立っている人間の姿を向かい合わせ、一人では生きていけないという人間の形を示したのが行なのです。行というものはね、最低限度人間として生きていくために必要な事である。それをやるには敵をやっつけたり、後輩をやっつける必要はない。後輩を育てる、先輩も立てる。そして自分の存在を認める。これが行なのである。《と仰っています。そして、「少林寺が優れているのは、手を握り合い技を掛け合うふれあいを通じて相互信頼を自分で作っていく、相手にも感じさせるという事につきる。」と明確に示されています。金剛禅は、調和の思想であるといわれていますが、行そのものに自他共楽の精神が生きているのです。去る4月17日の読売新聞に「癒しの行《というタイトルでルポが掲載されました。本山で少林寺の修行を体験した記者は、「記者が体験してきた永平寺の座禅も比叡山の回峰行も、孤独に自己の内面と向き合う行だった。この少林寺拳法は、共同作業によってお互いを高めていく。相手あっての行、これは確かに新しい発明だと思う。《と評価してくれているのです。

3、「修行の心得」

 さて、この素晴らしい宗門の行をいかにして修行したらよいか、開祖は、懇切丁寧にその心得を説いてくださっています。 その中では何よりも先に「修行目的の確立」があげられています。ここでは、護身錬胆、健康増進、精神修養の三徳を兼ね備えた少林寺拳法を修行するわけですから、それらを手に入れる事が目的の一つとなります。そして、それと同時に、人の霊止たる我を認識し、自己を確立し、自他共楽の精神を身につけ、理想境建設に邁進するという大きな目的をも、確固たるものにしなければなりません。 その目的をしっかりと心に抱きつつ、修行の順序を大切にし、基本を学び、理を知り、数をかけ、片寄らない修行を、体力に応じて、永続して行なえば、必ず成道すると説かれているのです。これらは、主に易筋行を意識しての心得ではありますが、易筋行の修行とは、自己確立と自他共楽、そして同志とともに行なう理想境建設のためのものなのですから、金剛禅門信徒の「人生《全てに当てはまる心得といえるのではないかと考えています。

4、解の中枢「外修《

 金剛禅の修行は大きく外修と内修の二つに分けられます。外修は、肉体の修行で、内修は精神の修行です。また、外修は理解したり認識したりする大脳神経系に働きかけるもので、魄を修めるために行なうものです。ただしここで気をつけなければいけないのは、頭だけで認識したり理解したりするのではなく、身体を使って認識し理解するという金剛禅のあり方です。口頭禅は厳しく否定され、行動せよと口を酸っぱくして諭された開祖の思いを忘れてはいけません。 外修では、この法の主行である易筋行や、整体行と托鉢行の三つが積極的な修行と位置付けられ、休養、食養、排泄が消極的な修行として位置付けられています。なお易筋行については、2001年2月1日に行なった法話「易筋行で何を身につけるか《を参考にしてください。

5、信の中枢「内修《

 対して内修では、霊魂つまり信仰や信念・信心の中枢である太陽神経叢に働きかけるもので、魂を養うために行なうものです。
 そこでは、信仰の確立、調息、座禅、問法修学といった積極的な修行と、反省行、感謝行、持戒行という消極的な修行が示されています。

6、「人事を尽くして天命を待つ」心境で修行に励もう

 私たちは、この外修と内修の修行を調和させ、信解一体・拳禅一如としなければなりません。組手主体の易筋行を主体とした修行の中で、助け合い高めあって、自己確立と自他共楽を目指し、同志とともに力を合わせて理想境建設という大目的に立ち向かっていく。そのために最大限の力を尽くす事によって、きっとダーマの加護をも得られるであろうと信じて修行を続けていこうではありませんか。 今年の合宿では、主行である易筋行をとおして何を身につけるべきか、小教区の同志とともに研究したいと考えています。楽しみにしていてください。

以上

 なお、このWEBサイトは、当道院平泉雅章拳士の企画製作により運営されています。この場を借りて感謝を申し述べます。

(宗)金剛禅総本山少林寺大館三ノ丸道院

道院長   小 林 佳 久

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