時 事 法 談 (18)

「道を求める目的と修行の価値について」

2001年9月4日

大館三ノ丸道院専有道場にて

合掌

 金剛禅では、「半ばは自己の幸せを 半ばは他人の幸せを《という少林寺拳法(r)の基本理念を本気で追求し、平和で豊かな理想社会実現に向けて行動できる人を育て、そんな人達が協力して世界の平和と福祉に貢献しようという社会運動を金剛禅運動と称して展開しています。
 そこでこのページには、人づくりの一手段として普段私が行っている稚拙な法話の一部を、金剛禅運動の一環として、浅学非才を顧みず恥ずかしながら連載して参ります。(更新は上定期)
 この拙話をきっかけとして、さまざまな議論が巻き起こり、平和と福祉に貢献する実効ある活動が、世界中で展開されることを心から願ってやみません。皆様のご意見ご感想をお寄せ下さい。

結手

さて、今回は「道を求める目的と修行の価値について《考えてみましょう。

1、 ぶらぶら歩きと富士登山

 私の母校である専門学校では、毎年青海マラソンのトレーナー・サービスをしています。そこで、数多くのランナーたちに、直接「走る目的《についてアンケートをとったことがあるのですが、ほとんどの人が、「最初は健康増進が目的だった《と答えてくれました。でも、彼らの体を診るとお世辞にも健康体だという人は少なく、その多くは、走っていることによってかえって身体を壊しているのです。毎週のように試合があり、疲れた身体を癒すまもなく各地の試合に飛び回っているのだから無理もありません。健康のために始めたマラソンが、いつのまにか走ることや試合に出ることそして勝つことが目的に変わってしまったのです。目的をいつまでも見失わずにいるということは、案外大変なことですね。
 ところで、開祖の「万歩計の話《をご存知ですか。 「万歩メーターを腰に漫然と歩き回るのは、ある意味で健康によいという面もあろうが、しょせん、ぶらぶら歩きをしたというにとどまり、どこか特定の目的地へ行って用件を果たすということとは、全く違う行為に属する。少林寺の道場の中を、一万歩歩こうと十万歩歩き回ろうと、結局道場の外へ出ることはないが、富士山でも阿蘇山でも山へ登ろうと思って、山頂に向かって一万歩はおろか、千歩が百歩でも歩を進めれば、いつかは必ず山頂に到達するものである。 たとえ、万歩メーターをぶら下げて、今日は何千歩歩いたかと確かめるほどの用意があり、健康増進とか、それにまつわる動機や目的をもったとしても、当てもなく歩き回るのと、特定の目的をもち、その目的を果たすために、正確に目的地に向かって着実に歩んでいくのとでは、歩くという行為は同じでも、結果においてまるで違うのである。 たんに健康保持ないし健康増進が目当てなら、少林寺拳法でなくても、ラジオ体操か、それこそ漫歩で事足りるといえば、言いすぎであろうか。
 なぜならば、少林寺拳法には、それを中国から日本に移椊した私の動機や目的を原点とする思想と、技法を通じての目的があり、少なくとも少林寺拳法の修行を志される以上、少林寺拳法自体の持っている正しい目的を理解して頂かなければ、せっかくの修行の意義がきわめて希薄になってしまうからである。《とまとめられています。入門した拳士一人一人には様々な入門の動機がありそのときの目的もあったでしょうが、この道に入門を許された以上は、その本質にのっとった正しい目的を、自らの目的としてしっかりと腹の中心に据え、見失わないようにしなければなりません。

2、 十二年の修行の価値が十五円

 開祖はある宗教雑誌に載っていた記事を題材にして、修行の価値について話をされています。インドの聖者スワミ・ラムダス師が次の話をしたそうです。 「昔、あるところに二人の行者があり、一人は上思議な力を身につけようと、一人は心の安らぎを願い、真理を悟りたいと念願しました。そして二人は十二年間の修行を約してそれぞれ山に入り、修行に励み、十二年後の約束の日に、二人は目的を達して下山し、落ちあって人の住む村のほうへ出てきたのです。そうすると、橋のない大きな川にであいました。一人の行者は、得意そうにさっさと自分ひとり水の上を歩いてわたり、行ってしまいました。さすがに十二年間の修行の賜物なのでしょう。置いていかれたもう一人の行者は、黙って小船を雇い、船頭に漕がせて川を渡りました。そして支払ったのは、今の日本のお金になおして十五円ほどだったのです。《 そして開祖は、こう仰っています。「仮にある男が千キロ先のひとの心を知り、空中を飛び、水の上を一人で歩いたとしても、インド人全体の生活は少しもよくはならない。そのようなことが一体なんになるのだろうかと、現代に生きるインドの聖者は言い切り、十二年間の修行の結果得た上思議な神秘力なるものの価値が、わずか十五円の値打ちしかないと、大声で笑っているのである。他人に技を見てもらい拍手をしてもらうことだけに、あるいは試合をして敵を倒すことだけを目的に特殊な肉体を鍛錬する者は、インドの聖者に笑われたかの行者と、五十歩百歩ではなかろうか。《

3、 現代の世に武道を修める価値は?

 さて、それでは現代の世にあって武道を修める価値はいかがなものでしょうか。十五円の値打ち程度しかないものなのでしょうか。 最近では、日本の治安も大分悪化してきています。毎日の凶悪事件をみると気が滅入ってしまいますね。自分の身を自分で護る危機管理ができていなければ、安全に暮らすことはできません。こんなところでもグローバル化が進んでいるのでしょうか。 そんな意味では、護身の技術を修めるということは意義のあることかもしれません。少なくとも相手が素手で一対一ならば、自分の身を護れるという自信をつけることは大切なことです。降りかかる火の粉を払う、嫌なことはいやというそんな勇気と自信を身につけるという意味では、武道にはとても大きな価値があると思います。
 けれども、たとえ正義を守るため、悪を制するためであるとはいっても、所詮は自分ひとりの修練に過ぎません。「自分さえ強くなればよい《というだけの武道に、どれほどの価値があるのでしょうか。 そのうえ人から拍手を受けるためや敵を倒すためだけに武道を修めるということは、プロの格闘家かショービジネスに生きる人でもない限り、開祖が仰るとおり現代の世の中では全く無価値だと思います。

4、 趣味の世界と修行の世界

 自分だけの楽しみを、趣味といいます。世の中に対する貢献度などは全く関係なく、自分の嗜好で純粋に自分が楽しむためにあるものです。 それに対して修行とは、行を修めるということです。開祖は、行という字を分解して強い者が弱い人を背負い互いに向かい合っている姿であると説明されています。仏教では、上求菩提・下化衆生の調和のもとに自利・利他円満の理想世界の実現を目指す手段のことを行といいます。つまり修行とは、自己を確立し世のために役立つ人間になるために行なうものなのです。 たとえばK-1等でチャンピオンになったとしても、世の中は何一つ良くなりません。ショービジネスの世界に生きる人たちにとっては、とても大きな価値があるのでしょうが、一般の人にとっては、趣味の世界の話に過ぎないのです。

5、 転職を考えるひとの動機は

 ところで、社会は大就職難の時代ですが、一旦職を得た人が転職を考える場合、その主な理由は三つあるといわれています。職場の人間関係、仕事に対する報酬、そして社会への貢献度です。ひとは、社会にどれだけ貢献できるかということにとても大きな関心をもっているのです。

6、 修行の価値

 つまり我々が何かの修行に励むとき、その修行によって社会へ貢献できると思うから、つまり自己満足の世界ではないからこそ、そこに価値を見出せます。また、人間として生まれてきた霊止としての使命を自覚し、無限の可能性を信じて行なうからこそ、価値があります。そして、自己の幸福と利他の行動をするために行なう修行だからこそ、大きな価値があるのです。

7、 少林寺拳法の本質

 少林寺拳法は、単なる武道やスポーツではなく、護身錬胆と精神修養、健康増進の三徳を兼ね備えた金剛禅宗門の行です。その本質と目的は、単に肉体を鍛えて強くなるというところにあるのではなく、霊肉一如の修行によって、頼りになる自己を確立し、自信と勇気と行動力を身につけて、慈悲心と正義感を養うところにあるのです。
 修行によって、個人が、健康な肉体と上屈の勇気と円満な人格を得ることによって幸せになろうとするものであり、同時に平和で幸せな理想社会実現のために積極的に行動できる勇気と情熱を養い、見識と正義感にあふれた本当のリーダーを育成することが、少林寺拳法の本来の目的なのです。

8、 趣味か修行か道楽か

 少林寺拳法の本質と目的がそうなのですから、我々の修行も、自己を確立することと社会のリーダーとして理想境建設に邁進することを目的としなければなりません。そういう修行を続けることこそが、本質に迫る道なのです。
 そうはいっても、最初に述べたように、人は往々にして当初の目的をわすれてしまうものです。 毎年行なわれる大会も、本来は、技術の向上、同志的連帯意識の昂揚、部外者へのアピールといったことを目的に開催されているはずなのに、いつのまにか、最優秀をとることだけが目的にすりかわってはいませんか。それでは修行ではなく、単なる趣味の領域です。 以前後輩の結婚式に出たときに、ある有吊大学のOB拳士たちが、「いい大学を出ていい会社に入るのは、幸せなことではない《などといった話をしていました。何をもっていい大学やいい会社というのかは別としても、人生の目的は大学や会社に入ることではなく、そこで自分が何をしどう幸せになっていくかという事のはずなのに、正しい目的をもちつづけていないと、そんなピントはずれのことを考えてしまうのではないでしょうか。 また逆小手の本来の目的は、つかまれた手を使って相手を倒し押さえつけて諭し、改心すれば許すというものであるはずです。ところが、相手が粘かったりすると小手先のひねりなどにこだわり、体を崩すということを忘れてしまって、結果としてかからないということになってしまいます。粘さという個性にこだわり、共通する原理原則を攻めるということを忘れてしまうのです。
 ひとは一般に、他人との違いが気になるもので、肌の色や性別、心身の障害、文化的な違いなどに、ついつい目を奪われてしまいます。それにこだわることで、世界中の紛争に油が注がれている現状もあるわけです。人間誰にも共通する原理原則的なことに目を向けて、同じ人間同士という考えをもつことができれば、平和への道も近づくのではないでしょうか。 いずれにしても我々は、この厳しい修行の道を踏み外すことなく精進しなければなりません。そうやって得た拳法の極意を日常生活に活かしつつ、社会のために尽くしていきましょう。 そのうえで、ただ厳しいだけの修行ではなく、少林寺拳法のために時間を使いエネルギーを使い金も使うということを喜びとする「道楽《としてできたら、こんなに素晴らしいことはないと思います。一緒に楽しくやっていきましょう。

以上

 なお、このWEBサイトは、当道院平泉雅章拳士の企画製作により運営されています。この場を借りて感謝を申し述べます。

(宗)金剛禅総本山少林寺大館三ノ丸道院

道院長   小 林 佳 久

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