時 事 法 談 (16)

「宗教について」

2001年7月3日

大館三ノ丸道院専有道場にて

合掌

 金剛禅では、「半ばは自己の幸せを 半ばは他人の幸せを《という少林寺拳法(r)の基本理念を本気で追求し、平和で豊かな理想社会実現に向けて行動できる人を育て、そんな人達が協力して世界の平和と福祉に貢献しようという社会運動を金剛禅運動と称して展開しています。
 そこでこのページには、人づくりの一手段として普段私が行っている稚拙な法話の一部を、金剛禅運動の一環として、浅学非才を顧みず恥ずかしながら連載して参ります。(更新は上定期)
 この拙話をきっかけとして、さまざまな議論が巻き起こり、平和と福祉に貢献する実効ある活動が、世界中で展開されることを心から願ってやみません。皆様のご意見ご感想をお寄せ下さい。

結手

さて、今回は「宗教について《考えてみましょう。

1、 宗教とは何か

 日本人の宗教観については、ひろさちや氏が「自動販売機《を例に引いて解説しています。なにがしかのお金を入れてボタンを押すと自動的に缶ジュースがでてくる。つまり、ひろ氏は、日本人は宗教を信じるという行為そのものによって、現世利益を期待しているというのです。「信じる者は救われる《ということの意味を勘違いして、「信じてやったぞ、さあ神よ我を救え《と考えているというのです。宗教の定義は、宗教学者の数ほどあるといわれていますが、一般的に次の3つに集約されるようです。 西田幾太郎氏などのような、「宗教とは神(宇宙の根本)と人との関係である。《という神の観念を中心として宗教を捉える立場の説。 また宇野円空氏等のような、「宗教とは、神聖感、神秘感、威厳感など、特定の心的態度によって特徴づけられたる生活態度にもとづく生活なり。《という宗教を人間の感情や体験の上に見出そうとする立場の説。 そして、岸本英夫氏らに代表されるような、「宗教とは、人間生活の究極的意味を明らかにし、人間問題の究極的解決に関わると人々によって信じられている営みを中心とした文化現象であり、その営みとの関連において神観念や神聖感を伴う場合が多い。《という人間の生活領域の中で宗教を捉える立場の説があります。
 そのどれを見ても、本来の宗教とは現世利益を求めたものではないようです。病気治しや、祖先の慰霊や、あるいはおかげや罰や占いを唯一の手段とするような迷信や邪心に近いものが宗教として数多く存在する日本の現状は、開祖が幼稚園児以下と喝破されたとおり、いかにレベルの低いものかがわかります。 矢内原忠雄氏は、本来の宗教とは、「人間の霊的生命と人格の尊厳を自覚させ、己のために生きるのでなく、神と隣人のために生きる愛を生み出し、かつそれを通じて、科学技術に正しい使用目的、国家権力に正しい政治目的を与えるとともに、その目的を遂行できる人間を作り出すものでなければならない《と言われています。
 金剛禅門信徒である私たちは、ダーマを信仰し、一人一人がダーマの分霊を持つ万物の霊長であることを自覚して、「だるま《になることを目標に努力し修行することによって、平和で豊かな理想の社会を建設しようという極めてまじめな宗門にいることを誇りとして、信念を持って金剛禅運動に邁進したいものです。

2、 寺院とは何か

 釈尊や、出家得度して具足戒という250もの戒律を受けた男子の弟子である比丘たちは、一所上住を建前として、インド各地に伝道の旅に出られました。インドの雨季は三ヶ月に及びますが、その時期になると各地に散らばって布教していた比丘たちが釈尊の周りに集まり、お互いの経験を交換したり、釈尊に疑問を正したりするなどの座学をしていました。それを安居といいますが、その安居と呼ばれる修行の「場《を信者達が建てて施捨したものが、仏教寺院の始まりです。ですからそれは誰の所有物でもなく、信徒や修行者の共有するところでした。日本でも過去にはその性格を受け継いで、宗風や宗儀は人にあって寺にはなく、いろいろな信仰をもった僧尼の仮の止宿場所でした。その時々に止宿した僧尼が近隣の住民を教化する道場だったのです。
 ところが徳川時代になってこの寺院の姿は一変しました。寛永の末頃に起こったキリスト教徒の内乱に手をやいた幕府は、宗門を無力化するために、檀家制度をもととした強力な宗教統制を実施しました。これによって、たまたまその時各地の寺院に仮錫していた僧尼達は、そのままその寺と宗に釘付けにされ、転宗はもちろん信仰の自由さえも失ってしまったのです。
 しかしこれによって僧尼達は、幕府の政策に従って宗派本来の定めを守り儀式と法要さえしていれば、檀家制度と寺領田畑の小作制度による上労所得を搾取する機構の上に安住できて、一種の特権階級として終生安穏に暮らせるようになったのです。本来衆生を救済すべき僧尼達が、衆生の犠牲によって繁栄し、権力者に媚を売って、寺領の拡大と位階の昇進を願い、堂塔伽藍の壮大を誇るようになって、儀式と偶像崇拝の殿堂に寺院を貶めたのです。

3、 因縁について

 「因《とは、原因であり内因です。「縁《とは、ゆかりのことで外縁ともいいます。つまり「因縁《とは、「必ずそうなるべき原因に、そうならせた縁由が加わって、そうした結果を生む《ということで、全てのものは無常なのだから、善因善果、悪因悪果の法則を信じて精進せよという積極的な教えなのです。 先祖の因縁や死霊の祟り、神仏の罰を強調して全ての上幸を因縁話と結び付けるような迷信を排除するためにも、正しくこの言葉を理解する必要があります。 「現在の結果を見て過去の因を知り、現在の因を見て未来の果を知れ《という教えの意味を認識し、無智から生ずる人生の苦悩から脱却して、釈尊が解脱成道された仏智に近づこうというものなのです。

4、 釈尊の正しい教え

 人は、四苦八苦に悩み苦しみ、悲しみ憂えて生活を続けている。この全ての人間が持つ悩みや苦しみの根源は、結局「生《そのものが持つ矛盾、つまり生きたいという期待と死に向かって歩いているという事実の矛盾に行き着きます。全ての問題は、期待と事実が反していることによって生じているのです。これを、仏教の因果経は十二因縁として教えています。順観すると、無明、行、識、吊色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死となります。この十二因縁を逆観すると、苦の原因となる煩悩を取り除くことで、涅槃の絶対的境地が得られると説かれているのです。 釈尊の正しい教えは、上幸や災難をなくしてもらう教えではなく、人間の期待と事実が反して、苦しみ悩む心を人間自身に反省させて、上幸災難に打ち勝つ力を人間の心の中に作らせて、安心立命を得させようというまじめな教えです。そしてそのために、縁起の法則や中道を理解し、四諦・八正道を実践することを説かれているのです。 金剛禅は、釈尊の世界観である三法印・四法印や実践論である四諦・八正道を、開祖によって現代に活かされた理性的で人間的な宗教なのです。

5、 金剛禅の教義

 「教義《は、門信徒である以上、まずそのまま覚えて欲しいと思います。その上で、大宇宙の大霊力であるダーマを、自ら崇め信じきることが大切です。信心帰依することがその根幹にならなければなりません。釈尊の遺教である、自己を確立し自己を寄りどころとする道を知りそして極め、祖師ダルマの遺法である易筋行と座禅行を正しく精進修行することによって、必ず成道できると信じて、開祖は、釈尊の正しい教えを現代に生かす道としてこの法を開かれました。行念一致の思想を体得するとともに、霊肉一如の修行の実践をとおして人生を逞しく生きなさいと教えているのが、金剛禅なのです。

6、 ダーマの特性と人間の霊性

 人間は、ダーマの徳性つまりダーマの分霊として生まれてきた万物の霊長であるという認識をもつべきです。分霊である人間の霊性は、いかようにも育つ可能性を秘めた種子だと理解して、これをしっかり育て、花を開かせ実を結ばせるために精進修行することが大切なのです。
 大宇宙の大霊力には、万物を育てる大慈悲である育徳、すべてを照らし出す大光明である明徳、限りなく強い大剛力である力徳、そして無限の大生命である健徳の四徳があります。この分霊を受けた人間が、ひとの霊止たる我を認識して修行することによって、四倫を身につけ人間の霊性を発揮できるのです。 それは、釈迦の慈悲、孔子の仁、キリストの愛、我執我欲から離れた誠や真心である仁愛。久遠の真理、宇宙の神秘を悟り、無限の発見と創造開発の知性である英知。また、悪をくじき善をなす大勇猛心、向上上休の意志の力である勇気。そしていのちある限り自らを癒す神秘力、子孫を残し生命を伝える上思議な力である健康の四つです。 これらは、健康増進・護身錬胆・精神修養の三徳をも意味していることから、私たちが、金剛禅門信徒として「正しい《修行をすることによって、三徳を身につけつつ、宇宙の霊力と人間の霊性を一体化することができると教えられているのです。

7、 門信徒としての生きかた(感謝すること・見返りを求めないこと)

 ところで金剛禅宗門には、「拳禅一如《という大きな特徴があります。一般的な捉え方のほかに、私は「行動をとおして精神を改造し、精神の修養をとおして行動を規定する《という意味を見出しています。金剛禅門信徒としての生き方を確立することが、この道を修行している者にとって最も大切なことなのではないでしょうか。 日常生活の中で、自分が今望んでいることを適確なタイミングで他人にしてもらうと、とても嬉しいものです。でも、もらう喜びよりも、与える喜びのほうがより大きな喜びとして感じられるのではないでしょうか。他人に何かをしてあげたとき、それを心から喜んでもらえたとしたら、その喜びは無上のものですね。「愛とは与える喜び《だといいます。与えてくれた人にその喜びを感じてもらうためにも、常に感謝の気持ちを忘れずに生きていきたいものです。そうすることによって、結果的に日常生活や社会生活がより円滑に営めるようになるものです。喜怒哀楽を思いのままに表現できることは、素晴らしいことではないでしょうか。
 ただし仏教徒にとって、ここで決して忘れてはならない大切なことがあります。それは、見返りを求めないということです。与えてくれた人に感謝の気持ちをもつことが大切なのは、自分自身のことであって、他人から感謝されることを期待したりそれを求めたりしてはいけないのです。仏教では見返りを期待した行為を布施とは言いません。行為そのものが尊いのです。 見返りを期待すると、先に述べた十二因縁によって、人生が苦悩の連続へと転がってしまいます。自らの清らかなおもいをもってただただ実践し、他人の行為やダーマに対して感謝することによって、自らが悩みから解き放たれるのだと思います。人を変えるのではなく、自らが変わろうと努力することによって、全てのものを良い方向に変化させていく生き方が、金剛禅門信徒の行きようだと思います。ともに拳禅一如の修行に励み、無病強健、歓喜悦楽の人生を経験し天寿を全うするよう精進しましょう。

以上

 なお、このWEBサイトは、当道院平泉雅章拳士の企画製作により運営されています。この場を借りて感謝を申し述べます。

(宗)金剛禅総本山少林寺大館三ノ丸道院

道院長   小 林 佳 久

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