時 事 法 談 (11)

「易筋行で何を身につけるか」

2001年2月1日

大館三ノ丸道院専有道場にて

合掌

 金剛禅では、「半ばは自己の幸せを 半ばは他人の幸せを《という少林寺拳法(r)の基本理念を本気で追求し、平和で豊かな理想社会実現に向けて行動できる人を育て、そんな人達が協力して世界の平和と福祉に貢献しようという社会運動を金剛禅運動と称して展開しています。
 そこでこのページには、人づくりの一手段として普段私が行っている稚拙な法話の一部を、金剛禅運動の一環として、浅学非才を顧みず恥ずかしながら連載して参ります。(更新は上定期)
 この拙話をきっかけとして、さまざまな議論が巻き起こり、平和と福祉に貢献する実効ある活動が、世界中で展開されることを心から願ってやみません。皆様のご意見ご感想をお寄せ下さい。

結手

さて、今回は「易筋行で何を身につけるか《を、考えてみたいと思います。

1、 拳禅一如の意味

 今年の鏡開き式で、新井会長が「少林寺拳法の修行で、生きる力といわれる正義感や慈悲心、勇気と行動力を養い、その信念に従って人間らしい行動をとれるのが拳士であると、私は確信しております。《と述べられました。また鈴木代表は新春法会の中で、「本物の教育を、皆さんと手を携えて一緒にやっていきましょう《と挨拶されました。そんな素晴らしい教育的要素をもつ少林寺拳法という技術を、もう一度振り返ってみたいと思います。
 少林寺拳法の第一の特徴は、「拳禅一如《です。本来切り離すことの出来ない肉体と精神を、霊肉一如の修行によって、肉体(精神の住みか)を養いながら、精神を修めるというあり方をとっています。なおその上で、動禅は静禅よりも効果が高いという考えによって、易筋行を主行とされているのです。 この「拳禅一如《についてもう少し考えてみると、「行動(体験)をとおして精神を改造し、精神の修養によって行動を規定する《という自己変革(自己確立)への道が示されていると言えましょう。「金剛禅は行動の思想である《といわれますが、口頭禅を厳しく排し、頭でっかちになることを戒められています。最近ボランティア教育の重要性が叫ばれていますが、机上の勉強だけでなく、自らの体験をとおして人格や徳を養成する事が重要であると、やっと社会が気づいたからではないでしょうか。 けれども行動をとおして精神を改造するとはいっても、自らにその意志がなければ決して他動的に変えられるものではありません。開祖は、「人間は変えられる。出会いによって変えられる。《と仰いました。この言葉は、自らが積極的に変革の意志を持つことによって、あらゆる出会いが自らに影響を与えてくれるという意味であって、自ら努力しないものを、他人によって変えてもらうことができるという意味ではありません。

2、 はじめに技術ありき、技術の中に思想がみえる

 行動をとおして精神を改造するという意味では、少林寺拳法の技術修練という行動は、理想的な精神改造手段です。私たちは、開祖が撒かれた拳法という餌におびき寄せられ釣り上げられました。釣り上げられてもなお、一生私たちは素晴らしい餌を与えられつづけています。この餌には、よりよく成長するための栄養素がふんだんに含まれているのです。 だから私たちは、技術を徹底的に追求することが大切です。その真剣な修練をとおして、技術の中にちりばめられた思想を読み取ることが出来るのです。「拳法開眼《とよく言いますが、これは、技術のコツを掴んだだけにとどまらず、技術の中からそこに秘められた教えを掴んだときにこそ、言うべき言葉ではないでしょうか。でも、開眼したと思ったときには、また新たな課題が立ちはだかります。それを突き破ったときにより高いレベルに開眼できるのです。こんな作業を一生続けて行くことになるのでしょうね。美味しくて栄養価の高い餌を、お互い貪欲に摂取し吸収していきましょう。
 ところで、私たちは具体的に少林寺拳法技術修練の中からどんなことが身につけられるのでしょうか。開祖は、その到達点である目指すべき人間性(徳)について明確にされました。それは、正義感や慈悲心、勇気と自信と行動力をもった信念ある愛国の志士たる社会のリーダーであるとされています。 拳禅一如の修行が大前提ですが、技術修練の中に、そのような人になり得る十分な栄養が備わっています。そこに散りばめられている教えの全容を示すことは、修行の身である私に出来るはずもありませんが、参考までに、私の解る範囲で少し話をしてみたいと思います。ただし当身の五要素に代表されるような各論は、普段の技術修練の中でお話していますので、今日は総論に絞った内容とします。

3、 慈悲心・正義感

 少林寺拳法修練は、ほとんど組手主体で行なわれます。互いに向上を願い真剣に行なえば行なうほど、痛い思いもするし場合によってはケガをすることもあるでしょう。自分が痛い思いを味わっているからこそ、他人の痛みもわかります。相手をいたわる気持ちもそこから生まれてくるものです。 仮に、自分の痛さだけを主張し相手の痛みを知ろうとしなかったり、自分だけのための練習を毎日続けていれば、誰も相手をしてくれなくなるでしょう。相手とコミュニケーションをとりながらどうやったら上手く出来るかを互いに研究しあうということのない身勝手な練習では、結果的に上達も望めません。取り繕うことのできないぶつかり合いの中で、人間関係を学ぶのです。 技術自体が上殺上害を目的に構成されていますから、まともに修行をすれば相手を傷つけずに効果を出す活人拳としての術を身につけることが出来ますが、技を行なう者の考え方次第では殺人拳にもなり得ます。優しさの伴わない修練は、危険がいっぱいで、まともな人は誰も近づかなくなります。そんな自己中心的だったり乱暴だった人たちも、漸々修学の生涯修行であるからこそ、上級者の指導や仲間との体験をとおして、またその技術自体に含まれる上殺活人のエッセンスを感じていく中で、いつのまにか慈悲心を身につけていくことが出来るのです。 上手に技をかけるためには、自分の動きだけでなく相手の動きに注意しなければなりません。相手を無視した独り善がりの技では上手くかからないのです。自分自身のために協力して相手のことを考えていく作業の中から、上正の根源である自分さえ良ければいいという考えや自分のない生き方から離れて、自他共楽の正義感が引き出されていきます。

4、 勇気・自信・行動力

 勇気は理屈ではありません。困難に立ち向かえる心の強さを獲得する近道は、腕っ節の強さを身につけることです。いざというときに自分の身を守れるという力を身につけるには、護身の技術である少林寺拳法が理想的です。真剣な修行の中から本物の技を身につけることによって、勇気は自然に湧いてきます。 「本当の強さは、うぬぼれでない自信である《と開祖は、喝破されています。少林寺拳法の技術は、努力さえすれば誰でも出来るようにつくられています。毎日の修行の中で、自分もやれば出来るという体験を何度も繰り返すことができるのです。六百数十の技を持つ少林寺拳法は、その修得に大変時間がかかります。だからこそ、徐々にそして確実に自信をつけていけるのです。自らの可能性を信じ、決してあきらめない真の強さは、技術修練の中から培われるものです。 少林寺拳法は身体を動かす動禅です。だから自然にフットワークが軽くなります。感じたときには、すっと体が動くようにならなければ、相手に叩かれてしまうのですから、感じたときには走っているということになるはずです。また、普段から「こんな時にはこのようにする《という条件設定とその対応策で作られた法形を演錬しています。そのため自然に、危険予知や危機管理を事前にできる能力が身につきます。考えてから行動するのでは遅すぎるからこそ、事前にあらゆる事態を想定し考え抜いて身につけていく作業をしているのです。だから、感じたら即走り出すことが可能になります。また、技術は、その技をかけながら変化に対応することが必要です。そこで走りながら考える癖もついていきます。そんな中から自然に行動力は身につくのです。

5、 宗門の行

 今まで述べてきた教育的効果は、他の武道やスポーツからでも得られるものかもしれません。しかしながら、少林寺拳法は宗門の行です。勝つために努力する過程で、結果的に人格形成に役立つかもしれないという武道やスポーツとは全く異なり、最初から宗教上の信仰にもとづく人間完成のために行なわれる修行の道「易筋行《なのです。目的とそのあり方が決定的に違うのです。

6、 修行の仕方によって結果は変わる

 修行の心得にもあるとおり、本来開祖によって設定されている目的を自分自身の目的として少林寺拳法を修行すれば、この道は、健康増進・護身錬胆・精神修養の三徳を享受して自己確立と自他共楽の教えを身につけることができる最良の道となるでしょう。 少林寺拳法を修練することによって、何を身につけられるかは、本人の自覚と努力によって決まります。互いに援けあって、より良い修行に励みましょう。 自ら正しく判断を下し、積極的に行動できる人間になろうではありませんか。「力の伴わざる正義は無力なり 正義の伴わざる力は暴力なり《この言葉の意味をかみ締めて、一緒に理想境建設に邁進しましょう。

以上

 なお、このWEBサイトは、当道院平泉雅章拳士の企画製作により運営されています。この場を借りて感謝を申し述べます。

(宗)金剛禅総本山少林寺大館三ノ丸道院

道院長   小 林 佳 久

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