時 事 法 談 (8)

「生かされて 生きる」

2000年11月2日

大館三ノ丸道院専有道場にて

合掌

 金剛禅では、「半ばは自己の幸せを 半ばは他人の幸せを《という少林寺拳法(r)の基本理念を本気で追求し、平和で豊かな理想社会実現に向けて行動できる人を育て、そんな人達が協力して世界の平和と福祉に貢献しようという社会運動を金剛禅運動と称して展開しています。
 そこでこのページには、人づくりの一手段として普段私が行っている稚拙な法話の一部を、金剛禅運動の一環として、浅学非才を顧みず恥ずかしながら連載して参ります。(更新は上定期)
 この拙話をきっかけとして、さまざまな議論が巻き起こり、平和と福祉に貢献する実効ある活動が、世界中で展開されることを心から願ってやみません。皆様のご意見ご感想をお寄せ下さい。

結手

さて、今回は「生かされて、生きる《ということについて、考えてみたいと思います。

1、 生まれたくて生まれたのではない

 人は、誰も自分の意志で生まれることはできません。生まれる前から意志をもって、生まれるか否かを決めることもできません。当たり前のことですが、人間は自分の力ではどうしようもないというところからこの世に生を受けてくるのです。往々にして人間は自分の力を過信して、何でも出来るような錯覚を持ちますが、如何ともし難いことがこの世の中には山ほどあるのです。

2、 生みたくて産んだのでもない

 子供が反抗期を迎えると、親に対して「産んでくれと頼んだ覚えはない《などとひねくれて言うことがありますが、親にしてみても、その子を生もうとして産んだわけではありません。もちろん殆どの親は、我が子が出来たことを最大に喜び生まれてくることを何よりも楽しみにします。 けれども、顔や形そして性質などを、親が望んだとおりに親自身の力で形作って産んだわけではありません。つまり、この子が欲しいと思って産んだのではなくて、たまたま生まれてきた子を我が子として愛しているのです。生まれる前からその子(胎児)がこの子(今目の前にいる子)であるとは知る由もないのです。だから、はじめから、今目の前にいるこの子を産みたいと思って産むことは出来ないわけです。 この順番はとても重要なことです。商店の店頭でこれが欲しいと選んで買ったのではないのですから、親の望みや思いとは関係なく子供は授かります。親は、生まれてきた子供を我が子だと認識してはじめて、かけがえのない親子関係を結びます(母親はもっと早い時期に母性が育ちますが、生まれてきた子を見てはじめて確たるものになるといわれています)。極端な話、実際に生まれた子ではない子と取り違えられたとしても、その子を我が子と信じてしまうのです。 親の中には、生まれてきた子が自分の望んだ理想像と異なっていたりすると、失望する人もいます。しかし、そもそも望みの子を買ってきたのではなくて与えられ授けられた子を愛するのですから、本末転倒なわけです。良い子に育ったから愛するとか、ぐれてしまったから愛せないとか、障害があるから産まないことにしようとか・・・、親子の愛情や人の命とはそういうレベルのものではないはずです。 どんなに子供が欲しいと思っても出来ないこともあります。また逆に、子供が出来ては困ると思っているのに授かることもあります。 結果(出産)を予測して生殖行為を行なっても、その結果は保証されたものではありません。自動販売機ならば決まったお金を入れてボタンを押すと商品が出てきますが、生殖行為と出産は、自動販売機におけるお金と商品のようには結びつかないのです。あくまで人間が行なう行為を「因《として、そこに様々な要因が結びつき、その上何か大きな力によって「縁」が生まれ、「果」としての子供が生まれます。仏教で言う因縁説です。 「望まれない子《などという言い方がありますが、自分の力では如何ともし難い働きによって授かった子なのですから、望もうが望むまいが全く関係のないことです。まして子作りの行為があっても殆どの場合受精しないし、着床したとしても必ず生まれるとはいえません。そのうえ生物全体を鳥瞰すると、他の生物ではなく人間として生を受けるということは、ごくごく極めてまれなことです。まさに、仏教で言う「有難い《ということです。子供を産む・産まないということも、人間にはどうすることもできない大きな働きによるものなのです。

3、 死ぬことも人間の勝手には出来ない

 人は生まれるときばかりでなく、死ぬときも自由にはなりません。もっと生きていたいと思っても、寿命がくれば息絶えます。また逆に死にたいと思っても、思っているだけでは死ねないし、自らに刃を向けても死の淵から舞い戻ることもあります。つまりは命というものは、人間の力では如何ともし難いものなのです。

4、 そこに働く大いなる力

 「人間の力では如何ともし難い働き《を認識し、信じ、畏れ、崇め、その働きや力に従うことを信仰といいます。一般に日本人は「私は信仰するものがない《等という言い方をしますが、そういうことを外国で言うと、大抵軽蔑されます。なぜなら、「この世は、自分だけのためにあり、全てのことは自分でコントロールでき、自分ひとりだけの力で生きている《と言っているようなものだからです。「自分の力では如何ともし難い働き《を認識することが、信仰心の第一歩です。

5、 信仰の対象

 その働きや力が何によって与えられていると考えるかによって、信仰の対象は変わりますが、まともな宗教であれば全て、人間を超えた大いなる力を信仰の対象にしているわけです。
 世界四大宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教)を考えてみると、仏教以外の三宗教は、創造主としての唯一絶対神をその信仰の対象にしています。ユダヤ教では「ヤハウェ《を、イスラム教では「アッラー《を唯一絶対神としています。そしてまたキリスト教では、復活したイエスが救世主(神と人間との介在者)として唯一絶対神の言葉を伝えているのです。 そこでは、全てのことが神の御心によってなされます。創造主(The Creator)という言葉どおり、神が全てを創ります。だからそこでは、人間は神の御心に従って生きていけばよいわけです。

6、 原始仏教における信仰

 けれども、釈尊の正しい教えには「神」がいません。そこには、「Dharuma(ダーマ)《があるだけです。ダーマとは、宇宙の最高の真理であり最高の秩序です。だから、宇宙に存在する一切の現象の根源となっているのです。金剛禅の教義では、「ダーマは宇宙の根本実相であり、大生命であり、大光明であり、大霊力である《として「時間と空間を超越して、存在する大引力であり、凡ての生物を、生成化育する大生命力であり、因果応報の、道理を司さどる、大霊力である。《と定義されています。この力や働き自体を、私達は、信仰の対象としているわけです。 ところで、仏教には「仏性」という言葉があります。誰でも仏になる可能性があると説かれているのです(異説あり)。修行者ゴーダマは、厳しい修行の中から自らの仏となる可能性を磨き鍛えることによって、ダーマの働きを完全に悟られたので、仏陀釈尊となられました。誰もが持つ可能性を、自らの努力で開花結実させたわけです。もちろん仏陀となられたあとでも、神にはなられず、信仰の対象にもなろうとはしませんでした。釈尊入滅後の初期教団では、仏像を描くことも許されず「法輪」をダーマのイメージとして用いていました。つまり釈尊は創造主ではありませんし、キリストのような救世主でもありません。ごく普通の人間でした。原始仏教においては、釈尊が自ら悟られ説き伝えられたその「働き自体(ダーマ)《そのものを信仰の対象としていたのです。働きには意志がありませんから、神の御心に従うようにダーマに全てをゆだねることは出来ません。「法灯明、自灯明」といいますが、自らダーマの働きを知る努力をして、それに基づき自ら判断し実行していく生き方こそが釈尊の正しい教えなのです。そこでは、神の僕(しもべ)として神の御心のままに定められた運命を生きるのではなく、自分自身が自己の主(あるじ)として主体的に生きることを教えられています。

7、 人間だけに与えられたダーマの分霊(霊止:ヒト)

 神にしてもダーマにしても、その働きは、全てのものに平等公平に与えられます。宇宙に存在する全てのものは、この働きによって成り立っているのです。この力は、我々人間では如何ともし難い働きですから、「他力」とも言われます。他力への感謝の心が信仰心ともいえましょう。魂を与えたもうたダーマへの感謝、身体を形成して下さった父母への感謝、食物への感謝、等など・・・。現代の日本では、この他力への感謝がなくなっているから、多くの問題を抱えてしまったのではないでしょうか。 金剛禅は、釈尊の正しい教えを現代に生かす道として開祖によって開基されました。ですから、その信仰の中心はダーマそのものです。けれども、開祖は金剛禅を「自力宗」だと仰いました。それは、人間だけが、ダーマから創造者(creator)としての力を分け与えられた唯一の存在であるからです。我々人間は、ダーマの分霊を魂(他のいかなる動物にもない、よりよく生きていこうとする意志や情操、理性の働きなど)として与えられた霊止(ヒト:霊魂の止まるところ・・・ダーマの分霊を身に受けた人間のことを開祖はこのように表現されている)であるということを認識して、自分の可能性(ダーマ)を磨き、その働きを正しく運用して、自らの力(ダーマ)で道を切り開いていくことが求められているからです。 唯一絶対神を信仰する宗教では、人間は神と契約を結び神の僕となることで、神の加護を得ることが出来ます。しかし、金剛禅においては、神の力(ダーマ)を人間が分け与えられていると考えます。キリストなどごく限られた特別な人の他にそんな力を持っている人間がいることなど、唯一絶対神の世界ではあり得ないことなのです。その対比から、開祖は、我々の信仰を「自力宗」であると仰ったのだと思います。「人事をつくして天命を待つ《自力と他力の関係を、開祖はこんな言葉で説明されたこともありました。

8、 必要とされ生かされて生きる自覚

 ダーマから、その力の一部を魂という能力として分け与えられ、大恩ある父母によって身体を作られて生を受けた我々は、必要があるから生きている、生かされていると捉えなければなりません。ダーマから使命(mission)を与えられているのです。ヒトは霊止であるということから自分自身と全ての他の人々が、人間以外の生物とは違う、尊い存在であることを理解し、どんな人でも対等平等であり、必要があって生かされている素晴らしい存在であることを認識しなければなりません。その上で、自らの使命を達成すべく努力することが大切なのです。

9、 金剛禅門信徒としての生き方

 霊性は、全ての人に等しく与えられていますが、それは磨かなければ光りません。開祖はその磨き方を次のように述べておられます。「まず魂の住家である肉体を鍛え、本能的な心や情動を起こさせる魄を修め霊性である魂を養って、人が霊止としての働きを全うするように、たゆみなく精進を続けなければならないと私は信じている。《「限りない愛情をもって育成してくださった父母の大恩に感謝するとともに、これに報いるためにも、霊肉一如、行念一致の修行を積み、上屈の精神力と金剛身を養成し、まず己を寄りどころとするに足るよう努力し、他のために役立つ人間になることを考えなければならない《と。
 組織には、絶対に必要な人達と、いないほうがいい人達、そしてどちらでもいい人達という三種類のグループがあるといわれています。これは、どんな精鋭を集めた組織でも、必ずそういうグループ分けが出来るようです。ただ、考えてみると、全ての人がまとまっていて反対者がいないという組織は恐ろしいものですし、どちらに転んでも良いという一般的な人も必要です。ですから実際には、三種類のどこに属していようとも、必要があってそこにいるといえるでしょう。どんな人でも必要があって生かされているのですから。 しかしながらその上で、我々金剛禅門信徒は、仕事においても、家庭でも、道場にあっても、また金剛禅運動を実践しようというときにでも、リーダーとして常に必要とされ頼られる存在でいられるように、自らを磨きつづけたいものです。生かされて生きていることを自覚した者として、世のために役立つ存在であれという使命を全うするためにも。

以上

 なお、このWEBサイトは、当道院平泉雅章拳士の企画製作により運営されています。この場を借りて感謝を申し述べます。

(宗)金剛禅総本山少林寺大館三ノ丸道院

道院長   小 林 佳 久

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