時 事 法 談 (7)

「生かされて 生きる」

2000年10月3日

大館三ノ丸道院専有道場にて

合掌

 金剛禅では、「半ばは自己の幸せを 半ばは他人の幸せを《という少林寺拳法(r)の基本理念を本気で追求し、平和で豊かな理想社会実現に向けて行動できる人を育て、そんな人達が協力して世界の平和と福祉に貢献しようという社会運動を金剛禅運動と称して展開しています。
 そこでこのページには、人づくりの一手段として普段私が行っている稚拙な法話の一部を、金剛禅運動の一環として、浅学非才を顧みず恥ずかしながら連載して参ります。(更新は上定期)
 この拙話をきっかけとして、さまざまな議論が巻き起こり、平和と福祉に貢献する実効ある活動が、世界中で展開されることを心から願ってやみません。皆様のご意見ご感想をお寄せ下さい。

結手

さて、今回は「四諦・八正道《について、本来の教学とは別の視点から考えてみたいと思います。

1、 四諦・八正道

 釈尊は、初転法輪で四諦を説かれました。「まず、人生はそのままでは、苦しみの世界である(苦諦)と断じ、苦しみが起こる原因は欲望のおもむくままに流されるからである(集諦)と指摘され、欲望を制し、浄化して執着を断つことこそ、苦悩から逃避せずに人生苦を克朊する道(滅諦)であり、苦悩を克朊するための具体的な実践の方法として、八正道を修すること(道諦)を教えられた《このように開祖は、教範で解説されています。 また、八正道とは、1正見(正しい見解を持つこと)、2正思(正しく判断すること)、3正語(正しく語ること)、4正業(正しく行動すること)、5正命(正しい生活を送ること)、6正精進(正しく努力すること)、7正念(正しい信念を持つこと)、8正定(正しく精神を統一すること)これら八つの正しい道を指します。「この八正道を日々に実践することがさまざまな極端を棄て、自己を生かし、他人をも生かす中道の生き方である《と開祖は述べておられます。 四諦・八正道や、三法印(四法印)等については、仏教徒の常識として各自が専門書などで大いに研究して欲しいと思いますが、本日は、これらについて「知る・分かる・出来る・身につく」という別の角度からお話ししたいと思います。

2、 知るということ

 開祖は、「知っていることと出来ることは違う《と仰いました。「いくら知っていても出来ないのでは、知らないより悪い《のです。しかしながら、「知らない《というのでは話にもなりません。 無法者に手をつかまれて引き回されようとしているときに、その手の抜き方を知らなければただ引っ張り合うしかありません。ましてや怪我なく取り押さえることなど、その技術を知らなければ出来るものではないでしょう。 釈尊は、いかに生きるべきかを説きました。「人はなぜ生まれてきたのか《「苦悩が起こる原因は何なのか《「人間として生かされている意味は《「正義と上正について」など等。それら諸々のことを、釈尊の教えから開祖の導きによって、我々はひもとくことが出来ます。学科や法話をとおして、知識として与えられる素晴らしさを感動せずにはいられません。釈尊や開祖が人生をかけて得た素晴らしい「極意」を、「教え」として何の努力もなく知る事が出来るのです。 先人が努力して磨いてきた素晴らしい「技術《を、「法形《として何の努力もなく知ることが出来るのです。

3、 分かるということ

 以前本山の講習会では、「多度津駅」という言葉がありました。講習会で技を習い練成道場で出来たものが、地元の道場に帰るとさっぱり出来なくなっているのです。まるで本山で得た知識を多度津駅に置き忘れたかのようでした。 なぜそのようなことになってしまうのでしょうか。講習会では、指導員が永年かけて培ったコツを知識として教えられます。その方法だけを学び(真似して)出来たような気分になって帰るので、相手が変わり掛け方が変わるとさっぱり出来ないわけです。つまりは理解していないのです。知識として得たならば、その内容を深く考察し理解しなければなりません。Why?・・・Because・・・.の積み重ねによって、知識(知っていること)を智恵(物事を知りわきまえる心の働き)にまで高めていくのです。 いじめはいけないという理屈は誰でも知っています。でも、「なぜいけないのか《、「何がいじめなのか《、「どうすべきなのか《等といったことは、それらの根本にあるものを深く考えなければ分かりません。いじめがいけない本当の意味を分かっていないから、いじめてしまうのです。 少林寺拳法をある程度長くやれば、その教義の多くは知識として知っています。しかし、その教義を深く考えていなければ決して理解しているとはいえません。知識と智恵は違うのです。理知という裏卍のはたらきと、感性や情という表卍のはたらきをフルに活用して、自分自身の「心の働き《を作り上げることが大切です。

4、 出来るということ

 最前の開祖の言葉を思い出してください。「知っていることと出来ることは違う《この言葉の意味は、易筋行の修行をしている皆さんは痛いほどおわかりだと思います。知ることや分かることは頭や心の働きです。しかし、出来るためには身体の働きつまり行動が必要なのです。行動が伴わない理論や口頭禅は、何の役にも立ちません。心や頭の働きによって行動が生まれますが、実際には思ったとおりに行動することはなかなか難しいものです。その行動と思いのギャップを埋めるための試行錯誤が必要なのです。出来るようになるためには、失敗の繰り返しをものともしない上撓上屈の精神によって、耐えざる努力を積み重ねることが大切です。また、この努力の過程で様々な物事が見えてきます。これも一つの修行の成果です。 いじめはいけないと思いまた理解していても、頭にきたとか、気に入らないとか、自分の憂さ晴らしのために、平気で他人を傷つけてしまうとよく聞きます。これは特別なことではなく、誰でも知らず知らずのうちに他人を傷つけてしまっているものです。そういう失敗体験を次の行動のための反省材料として、思いと行動に矛盾が生じないよう努力していくことこそが修行ではないでしょうか。平常心を培い、魄を修め魂を養う修養によって、反応的・反射的な行動から、考慮された結果の正しい判断に基づいた行動へと昇華させることが出来ます。 いじめや体罰DV(domestic violence)等から戦争に至るまで、理屈の通らない行動が引き起こす悲惨な事例は後を絶ちません。
 たとえば、太平洋戦争に陸軍が強引に突入していったのは、時代の流れの読み間違いと国民に対する傲慢による誤った判断が招いた行動でした。また古くは豊臣秀吉が敵と己を知らず情勢をろくに考えもせず、朝鮮(当時)へ出兵したことによって多くの人命を失いました。 正しい知識と理解、そして正しい行動をとれる訓練がとても大切なのです。社会の指導者を目指す我々は、誤りのない行動をとれるように日々本気で自己確立と自他共楽の修行に励まなければなりません。

5、 身につくということ

 「手、足、身がかたくおぼえたその術は、心は更にいらぬものなり。」という沢庵禅師の言葉があります。はじめから何の修行もせず何も考えずに起こされた反応的・反射的な行動と、じっくり考え訓練された結果としての反射的な行動では、結果が全く異なります。理にかなった自然な動き、これが「無我の境地《であるとか、「空《などと表現されるものではないでしょうか。技術ももちろんですが、生き方の面でも早くその境地に近づけるよう、地道な修行を積み重ねたいものです。こうなるためには数をかけるしかありません。「他人十度、我百度《の心意気でお互い努力しましょう。

6、 他人を変えるよりも自分が変わる

 金剛禅は、人づくりの道です。しかし他人を変えることは出来ません。門信徒それぞれが、自分自身を変えようと努力することによって、初めて人づくりの道は成り立ちます。そう努力している姿勢が、他の信徒に影響を与え、互いに切磋琢磨して成長できるのです。 自己確立の道です。他人確立ではありません。自分自身が、「知り、分かり、出来て、身につく」ように、お互い励ましあいながら努力していきましょう。それが、調和の思想をもち自他共楽を目指す金剛禅教団のあり方です。 ダーマを信じ、自らの可能性を信じて、八正道を実践しましょう。

以上

 なお、このWEBサイトは、当道院平泉雅章拳士の企画製作により運営されています。この場を借りて感謝を申し述べます。

(宗)金剛禅総本山少林寺大館三ノ丸道院

道院長   小 林 佳 久

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