時 事 法 談 (5)

「人間は変えられる。出会いによって変えられる。」

2000年8月1日

大館三ノ丸道院専有道場にて

合掌

 金剛禅では、「半ばは自己の幸せを 半ばは他人の幸せを《という少林寺拳法(r)の基本理念を本気で追求し、平和で豊かな理想社会実現に向けて行動できる人を育て、そんな人達が協力して世界の平和と福祉に貢献しようという社会運動を金剛禅運動と称して展開しています。
 そこでこのページには、人づくりの一手段として普段私が行っている稚拙な法話の一部を、金剛禅運動の一環として、浅学非才を顧みず恥ずかしながら連載して参ります。(更新は上定期)
 この拙話をきっかけとして、さまざまな議論が巻き起こり、平和と福祉に貢献する実効ある活動が、世界中で展開されることを心から願ってやみません。皆様のご意見ご感想をお寄せ下さい。

結手

さて、今回は「人間は変えられる」ということについてお話します。

1、 今の自分に満足ですか?

 こう聞かれて「満足している《などという人は、よっぽどおめでたいか、よっぽど立派な人しかいないでしょうね。 自分自身に素直になればなるほど、まじめに考えれば考えるほど、自分自身のいやなところが見えてきます。自分を嫌いになったり、消し去ってしまいたい衝動に駆られたりもします。
 でもそんな自分を消し去るよりも、少しでもマシな人間に変えていこうと努力することが、修行者の生き方です。変わっていく自分と、変えようと努力している自分を見ているうちに、そんな自分が大好きになり、かけがえのない存在だと気づくはずです。自分の現状に満足してしまったら、その人の成長は止まり下降の一途を辿りますが、努力した「自分を誉めてやりたい」というように自分の生き方に満足できる瞬間はあるものです。お互いそんな思いが毎日味わえるように、一期一会の気持ちで生きていきたいですね。

2、 ヒトゲノム・・・先天性と後天性

 ところで最近は、ヒトゲノムの解析が着々とすすんでいます。人は生まれながらにして、一生をどのように過ごすかがプログラミングされているそうです。姿かたちはもちろん、いつごろどんな病気に罹り、どんな性質を持ってどんな生き方をするかなど、全てのことは先天的に決められているというのです。 これによって遺伝子を生まれる前に解析し、障害のあるなしによって命を人為的に操作しよう等という議論もあります。まるでホロコースト(ショアー)のような優生思想だとは思いませんか。命は、ダーマによって授けられ、ダーマによって生かされているものです。このかけがえのない命を、人間の浅はかな価値観で勝手に操作することなど許されるはずがありません。 人は生まれながらにして得た素質の上にたって、後天的に体験したり努力することによって育まれていきます。どんなに立派な天与の素質を持っていても磨かなければ光らないし、様々なハンディキャップを持って生まれても、本人の努力や周囲の協力で素晴らしい人生を送る人もいます。 開祖は、メッキという言葉でこのことを説明されています。薄い金メッキは、すぐに剥げてしまい中身のなさを露呈するが、努力して何度もはり重ねた厚いメッキは、どんなことがあっても決してはがれないといいます。光り輝く素晴らしい人生を送るためには、生きている今を大切に、自ら努力して修行に励むことが必要なのです。

3、 出会いが目標をつくる

 ひとの生き方が、生まれながらにして決められているものでない以上、どのように生きるかは、そのひとの考え方と努力によって決まります。憧れや目標があってそれに近づこうとすることが、その人を成長させるのです。 過去には、「末は博士か大臣か《という言葉もありましたが、最近ではなかなかあの人のようになりたいと言う人物がいなくなりました。
 でも、自分の周囲に見つけた素晴らしい人、あるいは素晴らしい書物、色々なものとの出会いはあるはずです。そんな目標となるものと出会えた人は幸せです。少林寺の拳士には、開祖という大きな目標や金剛禅という素晴らしい道しるべがありますね。それだけでも私たちは幸せです。なおその上に、身近な多くの人との出会いを求め、自らを成長させたいものです。

4、 信仰心で自らを変える

 目標を見つけても、はじめから「あの人は特別で、自分にはとても真似できない《とあきらめてしまう人がいます。金剛禅では、ダーマを信仰し自らの可能性を信じることを教えられているのですから、やってみる前からあきらめるようなことは論外です。自分の可能性をどこまでも信じて、自分自身を変えていく主体的な努力が大切なのです。 開祖は、「人間は変えられる。出会いによって変えられる。」と説かれました。しかし人が自らを変えるためには、素晴らしいものとの出会いを素直に感動する感性と、その感動を行動に結びつける主体性が必要なのです。

5、 今の少林寺に満足ですか(大会の反省から)

 いままで個人の変革について述べてきましたが、ここで組織の変革について考えてみましょう。先の県大会を振り返ってみると、「挨拶が出来ていない《、「脚下照顧が出来ていない《、「見学態度が悪い」、「競技の成績のみにとらわれている」などいわゆる拳士の心得とかけ離れた態度が目に付きました。しかもこれらは、今回の一大会のことにとどまらず、多くの行事に共通する問題でもあります。 以前は、本山に行くと誰とでも当たり前に挨拶しあっていたはずなのに、道着を着ている間でさえ、こちらから挨拶をしても「どこの誰だろう?《といった感じで敵を伺うような態度ですれ違っていく人もいます。 顔見知りに挨拶をしたとき、相手が「誰に挨拶しているの?」とでもいいたげに合掌礼もせずすれ違い、通り過ぎてから知り合いだと気がついて、「あっ、君か!《等と慌てて話し掛けてくる方もいます。 少林寺だけのことでなく日本人の挨拶の範囲が、最近では自分の知り合いに限られてしまっているようです。知り合いでなければ同じ場に人がいても関係がないのでしょうか。「袖触れ合うも他生の縁《等とは思いませんが、お互い人間同士、もっと気持ちよく互いを認め合い大切にするべきではないでしょうか。 今のままで良いはずはありません。では、どのように変革したらよいのでしょうか。

6、 自分が率先して実践する(他人の目標になりたい)

 法句経 第四品に「他人のよこしまを観るなかれ 他人のこれをなし彼の何をなさざるを観るなかれ ただ己の何をなし何をなさざりしを想うべし《という句があります。他人に「挨拶をしよう《と強要するよりも、自ら率先して挨拶をしていくことにより周囲に影響を及ぼせるのではないでしょうか。私たちは、よき出会いに恵まれて自分自身を変えようとしています。他の人にとっての良き出会いの相手(つまりそのひとの目標)となるような自己に自分自身を変えていくことが、最も確実に周囲を変化させ、少林寺を良くし、理想境を建設する近道となりうるのではないでしょうか。感性と主体性のある人に対しては大きな影響を及ぼせるはずです。 それこそが、自己確立と自他共楽の調和の道であろうと思います。

以上

 なお、このWEBサイトは、当道院平泉雅章拳士の企画製作により運営されています。この場を借りて感謝を申し述べます。

(宗)金剛禅総本山少林寺大館三ノ丸道院

道院長   小 林 佳 久

 ご意見・ご感想は大館三ノ丸道院長、または大館三ノ丸支部ホームページの「拳士のひろば《へお願いします。